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[コメント] 氷壁の女(1982/米)

アルプスの美景に見惚れるということ、ただひたすらに山に登るという行為、この二つがそのまま、時間性と情念の暗喩となる。抽象性と具象性の見事な結合。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







台詞が少なく、延々とアルプスの自然を映した場面が続くことで、実際よりも長い時間をかけて鑑賞していたように感じさせられる。それは冗長であるということでは全くなく、広原の水平性と山脈の垂直性という二つの距離と、光の白さがそのまま、人の想いの深さと強さの暗喩となっている。常に乳白色がかった色合いの画面の、柔らかさと透明感。山の斜面の、銀色に光る無数の線条。灰白色の石のあいだを流れる、白く輝く小川。垂直に伸びる岩肌と、遠くの、青みがかった灰色に見える山並みの対比。夜にダークブルーにその姿を浮きあがらせる岩山と、円く輝く月。「乙女」と呼ばれる、近づくこともままならないような孤絶した場所にある岩山。小さなせせらぎが、小川となり、激しい流れに至ること。あたかも自然の美しさに見惚れて人間に焦点を合わせるのを忘れたかのような印象さえあるこの映画の優れた点とは、まさに、自然に焦点を合わせることがそのまま、人間の生涯よりもさらに長い時間性を浮きあがらせ、人の想いの虚しさと激しさを同時に表現し得ているところにある。

回想シーンが挿入されているのは、この延長された時間感覚の上に、ダグラスとケイトがアルプスにやって来た経緯、妻帯者であるダグラスと、幼い頃から彼に憧れていたケイトの想いを滑り込ませ、この二人の想いが、アルプスの時間の中で引き延ばされ無効化されていく演出効果を上げている。ダグラスは、十年ぶりにケイトに逢ってその美しく成長した姿に心を奪われ、ケイトは、十年にも渡って引き摺ってきた感情をダグラスにゆだねる。つまり、時間というものが、ダグラスには変化として表れ、ケイトには、持続というかたちで表れる。

アルプスの村の老婆が、結婚式の前日に消息を絶った婚約者の遺体と、四十年ぶりに再会する場面は、この映画に於いてアルプスという場所が、時間の暗喩であることを明確に語っている。若くみずみずしい顔のまま氷の中に封じられていた婚約者。夫婦として結ばれる直前のまま静止した時間と、独身を貫いてきた老婆の想いの永遠性。ラストで、この老婆が葬儀から帰る人々の列の中から顔を見せるショットと、喪服の黒さ。全篇これ白のコンポジションとも言えるこの映画の最後に見せつけられるこの黒は、あまりにも鮮烈だった。この場面の直前、ヨハンが岩山から転落死しているのだが、それと葬儀の場面をつなぐ鐘の音は、老婆にとっては永遠の前日であった、結婚式の為に鳴らされた鐘の音のようにも聞こえてくる。

山に登る、という単純な行為が、台詞による説明が抑制されたこの映画にあっては、最も雄弁な表現になり得ている。岩山をゆっくりと登るケイトを、下から見上げるダグラスと、上から見守るヨハン。ケイトが足を踏み外した時、彼女が叫ぶ名前はダグラスだが、彼女に声をかけて励ますのはヨハンであること。ダグラスが少し他所へ行っているあいだに、短く言葉を交わすヨハンとケイト。視線の交錯と、短い言葉の遣り取りが、三人の微妙な関係を匂わせる。この心理表現は、まさに映画でしか為し得ないものだ。

難所に挑戦しようとするダグラスは、「奥さんには無理ですよ」というヨハンの言葉に従って、ケイトを置いていく。この、ケイトを置いていく、というところに、妻と別れようとしないダグラスの姿勢が重なり、ケイトが、自分一人で待っていることを簡単に了承するところに、彼女がダグラスと距離を置こうとしている心情が垣間見える。実際、ダグラスは自分から言い出したくせに、彼女の従順さに意外の念を表している。

僕がこの映画の繊細さを感じたのは、三人の関係性や心情を、観客に全て明示するのではなく、幾分か隠して想像にゆだねている所だ。山小屋で夜中に起きだしたヨハンが外に出、後からケイトも外に出て、ダグラスは彼女が隣にいないことに気づくのだが、何も言わない。観客には、ヨハンとケイトが外で何か話すなどしていたのかどうか分からず、帰ってきたケイトが、起きていたダグラスの顔を見ても微笑みもせず、ただ黙って隣りに寝る、一連の仕種や表情から感じとれるものだけが残される。だから、小屋に残ったケイトが手紙に何を書いたのかも曖昧にしか想像できないし、「一人しか帰ってきていない!」という村人の言葉を聞いて外に駆け出した彼女が、遠くに見える人影にダグラスの姿を求めていたのか、それともヨハンであってほしかったのかも分からないのだ。

途中から「村に残る」と言い出したケイトは、ヨハンが死んだことを知ってもやはり村に残る。つまり、ヨハンと結ばれる為に残るわけではない。いや、老婆のように、いつかヨハンと再会することを願って留まるのか。或いは、ダグラスが妻という氷壁に封じ込められてしまっていることへの諦念が芽生えたからか。こうしたことが全て曖昧であるのは、心理描写が不徹底であるからか?否、何らかの意味なり言葉なりの鋳型に填めることを避けることで、混濁し錯綜した心境を、その混濁と錯綜のままにしておき、その繊細なディテールに観客がその感性によって直接、何の介在にも妨げられずに触れられるようにしてあるのだ。

ショーン・コネリーの、人物の背景が殆ど語られずとも、「魅力的な初老の男」という存在感だけは納得させる佇まい。ベッツィ・ブラントリーの、アルプスの印象そのままとも言える、柔らかく透明な美しさ。ランベール・ウィルソンの、あまりにも素朴で直截にすぎる人物像を、それなりに好ましくも感じさせる若々しい顔つき。こうしたキャスティングも、優れた選択であったと思う。

また、音楽も素晴らしい。あの音はグラスハーモニカだろうか、或いはオンドマルトノはあんな音だったか?氷の透明感と、心の泣声のような痛切な音の感触は、アルプスの美景と拮抗するほどに、この映画に於ける演出効果を上げている。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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