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[コメント] 告白(2010/日)

このところ愚作を次々と生産してきた中島哲也だが、今回はさすがに愚作とは呼べない。音楽ビデオ的に、色合いから動きから何まで制御された画面の整然とした嘘っぽさは、ペラペラと語られる「告白」で構成された作品世界にも合致する。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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騒然とした教室で、澱みない棒読みを貫徹していく悠子の最初の「告白」の、薄っぺらな猿どものように騒ぎ続ける生徒らの声に抗する硬質な無感情と整然とした語り口は、本作の方向性を観客に完全に理解させる。悠子の話などまるで聞く気もなく騒ぎ続ける生徒らが、死とか殺しとかいった言葉が発せられると急に聞き耳を立てる様子は、少年が世のためと作った発明品のことよりも、少女による家族毒殺という扇情的なニュースに注目したがるマスコミや世間と全く同質だ。悠子の声もまた、聞かれることを求めているのかいないのか分からぬ淡々とした口調を保っていく。

この悠子の声が、ラストの体育館で生徒らを圧して状況の全てを完全に手中に収めるまでの過程が、本作の描く「復讐劇」。悠子以外の「告白者」が、自らの思いをその声にそのまま乗せる「独白」としての傾向を有するのに対し、悠子の声は、淡々とした声で他人に理屈を説く「教育者」としての鉄仮面を保とうとしており、そのことで、発露を抑制された彼女の私的な感情の激しさが感取できる。「生徒を決して呼び捨てにしない」という自らに課したルールとは真逆の姿勢で生徒に向かうウェルテルの信念を逆手にとって復讐の手駒にする悠子は、教育者としての自らの思想を貫徹したとも言えるだろう。その悠子が最後の最後に発する「なーんてね」は、延々と「告白」で綴られていた本作が、皆それぞれに独り言に終始しているディスコミュニケーションを描いていたことを告げていたようにも感じた。監督自身が或るインタビューで、原作を読んだとき、どの登場人物も互いにコミュニケーションしていないと感じた、と語っていたが、それは作品に完全に反映されている。

復讐というと、対象者の殺害が究極の手段のように思われがちだが、本作に於ける悠子の復讐は、そうした通念へのアンチテーゼの好例となるだろう。我が子・愛美を殺されたことに対する復讐――。単純な発想では、殺した少年二人を悠子の方で殺すというのが最大かつ簡潔な復讐ということになるのだろうが、やはり悠子は教壇に立って「告白」を始めたときと同じく、「命の授業」として復讐を貫徹する。つまり、殺人者二人の「価値観」を否定し破壊するという復讐。「少年A」=渡辺修哉は、母との歪んだ関係から、母以外の、自分さえ含んだ人間全ての命を軽んじており、故に、彼を殺したところで、彼の価値観を殺すことは叶わない。だが、修哉が自分の命よりも大事に思っている母親を、彼自身の爆弾と携帯電話によって爆死させるなら、修哉の命以上のものを破壊することになるだろう。この母親が、才能を持つ者としての「血」に執拗にこだわり、そのことで修哉に、他人の命を軽んずる価値観を植えつけた結果、我が子の手で爆死させられ、一方の息子、母のために無関係の他人に「血」を流させようとした修哉は、ショックのあまり鼻から「血」を流す。ここで当然に想起されるべきは、悠子が亡夫の、HIV感染した「血」を武器としたことだ。それを牛乳に混入したと告げるところからして、乳を与える=母という立場からの復讐という意味合いを強めている。しかもそれは、学校の昼食という時間を利用することで、教壇からの復讐という意味も加えている。(因みに、母乳は母体の血液から生成されるらしい)

修哉が、悠子に殺人の容疑者として問い詰められるシーンで、窓から身を投げるかに見せかけた後や、体育館で「命の大切さ」を訴える作文を朗読した後で呟く「なーんてね」は、世間的な道徳に従ってみせる嘘の、反道徳家としての署名のようなものだが、それを最後の最後に悠子が反復してみせる。修哉の母の爆死は、体育館で悶えて絶叫している修哉の脳内イメージとしてしか展開していないので、悠子が電話越しに語ってみせた策略も、実は嘘なのかもしれない。修哉の母が本当に爆死したのか否か、また、修哉による北原美月の殺害を通報したというのも本当なのか、最後まで明らかにはされない。悠子の「なーんてね」は、修哉への「これが貴方の更正の第一歩」という道徳的(?)な言葉を引っくり返しているのか、それとも、悠子自らが間接的に殺人に手を貸したという言葉を覆しているのか、その点に関して観客の頭を悩ます、言わば告白という名の爆弾の一投と言っていいだろう。

また、修哉の偽物の友情に誘導されて殺人の手助けをさせられた「少年B」=下村直樹もまた、自らの優位性を誇って直樹をゴミ扱いした修哉が実際には完遂し得なかった殺人を自らの手で為し遂げようと、愛美を溺死させる。その結果、唯一の擁護者であった母の手で殺されかけ、逆に彼女を自分の手で刺殺することになる。唯一の味方を自ら殺す、という意味では、修哉による美月殺害と同じものであるし、母を失うという点では、修哉の母の爆死と同様。ただ、直樹に関しては悠子は、愛美が感電によって死んだと思い込んだ彼が、溺死に見せかけるためにプールに沈めたという推理を語っていたわけだが、その推理の範囲では、直樹に対する悠子の復讐は、意図的ではなく結果的に、修哉と同等の意味合いを持ち得たという形ではある。

ところで、悠子と娘・愛美の関係は、失われることの痛切さを観客に厭というほど感じさせるほどに強く描かれてはいず、むしろ淡白でさえある。このことで、却ってこちらとしては気持ちが救われる面もあったりはするのだが、脚本、演出の怠慢と言えば確かにそうだ。それを救っているのは唯、愛美を演じた芦田愛菜の天性の愛らしさと言っていい。

「嘘」と「正義」の倫理的な均衡を描いた映画としては、『ウォッチメン』、『ダークナイト』、『ディア・ドクター』といった最近の作品と並べても、それなりに遜色がない。こうした作品を生み、またそこに独特の迫力を与えるこの時代というものについては、一度、改めて考察されるべきなのかもしれない。

プール、雨、涙、血、ミルク。暗く冷たく湿度の高い画面は、それでもなお、金属的な硬質さを保つ。ウェットでありつつソリッドな世界観。

(評価:★3)

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