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[コメント] WALL・E ウォーリー(2008/米)

ウォーリーの「足」。『2001年宇宙の旅』への批評性。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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3819695さんが指摘されているように、「目」と「手」はこの映画の大切な要素。ウォーリーやイヴのみならず、宇宙船アクシオムでの、たまたま出会った男女が瞬間的に心を通わせる場面でも、ふと「手」が重なってしまった二人が、驚いて「目」を合わせ、はにかみながら挨拶を交わすという形をとっている。そこでひとつ気がつくのは、宇宙船内の人々が皆一様に、普段から乗り物に頼っていて、自分の足で歩いていないこと。彼らの表情が専ら「目」と「手」に集中するのもそのせいだろう。宙に浮いた状態で移動する彼らの身体性は、イヴにきわめて近い。

この映画の随所でパロディ化されている『2001年宇宙の旅』では、猿が人間として覚醒する場面で、獣の遺した骨を「目」にし、「手」にとる、という行為が大きな意味を担っていた。この場面に流れた『ツァラトゥストラはかく語りき』序曲は、この『WALL・E/ウォーリー』では、アクシオム船長が自らの足で、その丸々と太った巨体を支える場面で挿入されている。その姿には、赤ん坊が初めて立ち上がったときのような感動さえ覚えてしまう。『2001年宇宙の旅』もまた、「足」という点では、ディスカバリー号船内に於けるボーマン船長のジョギングが、生身の人間としての彼の拠り所のようでもあった。

自立。自分の足で歩くということ。「足」に注目すれば、イヴが絶えず宙に浮かんでいるのに対し、ウォーリーは、キャタピラの「足」で土の上をカタカタと進み、「外部からの汚染物」としての足跡=キャタピラの跡を残していく(それを毎度神経質に拭くお掃除ロボット)。終盤で、記憶を失ったらしいウォーリーが、親友のゴキ公をキャタピラで平然と轢いていく姿からは、足下をチョコマカするゴキ公に気をつけるウォーリーの姿に、彼の繊細さが表現されていたことに改めて気づかされる。つまりウォーリーは、その「足」も感情を表わす一要素であったわけだ。冒頭のゴミのピラミッドが鮮烈な印象を与えるのも、それを積み上げてきたウォーリーが、自分の「足」でゴミを延々と運び続けていたことを即座に観客が了解するからこそだろう。

『2001年宇宙の旅』が、冒頭の猿たちのシークェンス以降、土、大地からどんどん離れていくのに対し、『WALL・E/ウォーリー』は土へと帰っていく。ハイテク生活の果ての結論としての、「農業、始めようぜ!」宣言。『2001年宇宙の旅』の狩猟民族的発想からの、180度の転換。最後に船長が、大地に種を植えたらピザも育つ、という勘違いを大声で言ってのけるのは、「ピザ=宅配される=歩かなくていい」というニュアンスを、最後まで残したのだろうか。

劇中で発見された植物の芽が、靴を鉢代わりに植えられている点も、「足」という主題を補強している。エンドロールでは、古代の壁画風の絵から、ゴッホ風、テレビゲーム風、と人類の画像史を概観するが、ゴッホ風に描かれた、例の鉢代わりの靴は、ゴッホの絵『古靴』を連想させる。そこに描かれている靴は、農夫の靴と解釈されてきたものだ。

それにしても、文字通り泥臭いウォーリーが、クリオネのように流麗なフォルムのイヴについていく姿は涙ぐましい。先の「目」と「手」に関して言うと、イヴは電光の「目」が消えることもあるし、「手」はボディに収納されもする。植物の芽を発見したイヴは、この両方ともを封印してしまい、任務遂行に「機械的」に従う彼女のクールさが表面化する。この、一切のコミュニケーションを遮断したイヴを心配して傍に居続けるウォーリーの健気な姿は、後に、当のウォーリーが記憶を失い、表情の無いロボットと化す場面で、回想シーンとしてイヴに対して示される。これには泣けてきた。

もうひとつ感動的なのは、やはり、宇宙空間でウォーリーとイヴが踊るように飛び回る場面。横長のスクリーンを大きく使った構図の心地よさもさることながら、悠々と飛ぶハイテクマシーンのイヴに対し、消火器というアナログな道具でついていくウォーリーの健気さ。また、その消火器から飛び散る泡は、雪の中で踊る恋人たち、という古典的な情景を、全く思いもよらぬ道具立てで反復する。このこともまた感動的だ。

(評価:★4)

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