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[コメント] 疑惑の影(1943/米)

書割のような「平均的アメリカ人家庭」という背景の中の一つの駒として以上の演出が施されないジョゼフ・コットンの勿体なさ。二人の「チャーリー」の対比も機能しきれず、仕掛けが仕掛けとしての人工性の域を出ない退屈。最悪な音楽。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ジョゼフ・コットンが、後の『第三の男』とは逆に彼自身が、独自の人生観を有した確信犯的な悪を演じている点が見所の一つだが、そうしたキャラクターの魅力を充分に活かせるようなヒッチではない。役者を単なる駒としか見做さない演出は、やはりそれなりの結果しか生まないわけで。

こまっしゃくれた子供たちの言動や、チャーリー(ジョゼフ・コットン)の姉(パトリシア・コリンジ)の素朴な善人ぶり。その夫(ヘンリー・トラヴァース)がミステリー好きの友人(ヒューム・クローニン)と殺人談義に花を咲かせる様子。こうした設定の数々が、いかにも計算して拵えましたといった人工感を漂わせる。登場人物までもが書割に見えてしまうヒッチ作品の退屈さが全篇に漂いまくる。

ニュートン一家の生活の書割感のせいで、その「平均的なアメリカ人家庭」としての平穏さがいかにも薄っぺらに感じられ、平穏な家庭に密かに侵入する悪としてのチャーリー叔父との緊張感も不十分なものに。脅かされている家庭そのものが虚妄に見えてしまうのだから仕方がない。

結果、序盤でヤング・チャーリー(テレサ・ライト)が家庭の雰囲気に不満を訴えていたことや、それを一転させてくれるものと期待していたチャーリー叔父との、「行くよ」と「来て」の電報が行き違いになるという対称性(二人のチャーリーが口にする「二人は双子のようなもの」という台詞の通り)、その叔父の正体が判明することで、ヤング・チャーリーが不満を抱いていた平凡な平和さえ脅かされること、最後には、死んだ叔父が善人として葬られること等々、全てが何の余韻も残さず終わる。本来ならば、酒場で二人のチャーリーが会話するシーンで、二人の価値観が真っ向から対決してもいい筈なのだが。そこに現れた給仕の女が「こんな指輪が自分の物になるんなら死んでもいいわ」とか何とか呟く台詞も、それでこそ活きただろうに。

ヤング・チャーリーが、夜に若い刑事(マクドナルド・ケリー)と街を歩くシーンでは、何の前振りもなく突然に、「あなた本当は刑事でしょう」というチャーリーの台詞と共に劇的な音楽が鳴るという唐突さ。このシーンで結果的にデートをした二人が後に恋仲になる展開も、単に筋書きにそう書かれているからそうなりましたというような唐突さがある。ひょっとして、この夜のシーンでは、感情の変化を自然に演出した場面が用意されていて、それが都合によってカットされたのではないか。そうした不自然さが否めない。

ヤング・チャーリーが何となく思い出した“メリー・ウィドウ・ワルツ”の旋律。それがチャーリー叔父による未亡人殺害事件の通称と一致するのは何故なのか。何か、ヤング・チャーリーが超感覚的知覚で察知したかのような不自然さで、これもまた唐突。第一、全篇に渡って幾通りかに反復される“メリー・ウィドウ・ワルツ”のアレンジが何とも酷く、耳障り。

(評価:★2)

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