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[コメント] マイ・ブルーベリー・ナイツ(2007/仏=中国=香港)

スローモーション(と、時折クイックモーション)の執拗さに、観ろ、観ろと凡庸なショットを押しつけられる感覚が。だが次第に、被写体を視覚的に愛撫する監督独特の仕方とも感じられる。横溢する色彩の洪水も眩惑的。色が美味しい映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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眩惑的な映像への耽溺。スローモーションやクイックモーションもその一環なのだろう。エンドロールでの文字までも、ぼうっ、と浮かび上がるような出方をしている。

これが映画初主演だというノラ・ジョーンズが実は狂言回し的な役割で、序盤でジェレミー(ジュード・ロウ)と離れた後は、ドラマの主軸はスー・リン(レイチェル・ワイズ)やレスリー(ナタリー・ポートマン)らの愛憎劇に移る。だが、この構図自体が、カフェで客達の愛憎劇を見守ってきたジェレミーの人生と、エリザベスの一年とが重なっていく過程ともなっている。ノラ・ジョーンズの歌が、静かに寄り添うように流れるのも、「見守る」というその在り方とマッチしている。

エリザベスとニューヨーク(=ジェレミー)との時間的、地理的な距離が画面に大きく示されるのも、ジェレミーとの距離をもう一度ゼロにしようとエリザベスが帰って来る終幕を、さり気なくも劇的に見せる為の仕掛けだったのだ。

スー・リンは、その元夫は妻への想いと酒への依存が断ち難く、また彼への憎しみを露わにしていたスー・リンも、彼の死後、やはり彼女自身の中にも断ち切れない想いがあった事が明らかになる。求める相手が得られない男と、自分の求めるものが認められない女の、共に味わう苦渋。この、男女の屈折した絆の形は、レスリーと父親の関係にも相通じるものがある。

レスリーのポリシーである、「誰も信じない」と「相手の心が私には読める」は、つまりは常に他人の言動を裏返しにして受け取るという事だ。その事で、ギャンブルには勝てても、父親との再会は果たせなかった。レスリーと分かれる直前、エリザベスが、レスリーの助言を振り切って、自分が欲しい車をディーラーの言い値で買う決断を下したのも、レスリーの、損をしたり傷ついたりする事を避ける余りに大事なものを逃してしまう姿を反面教師にしてのものではないか。車を買いに戻る、という行為はそのまま、ジェレミーと再会する為にニューヨークに戻るという決断と同一線上にある。「車」そのものが、自分の求める場所へ向かう意志の象徴なのだ。

ノラ・ジョーンズの演技は、作品の雰囲気を壊さない程度に抑制されている点が一応は評価できる、といった程度だが、その素朴な存在感は悪くない。ジェレミーが執着するほど魅力を発散している女性とまでは思えないが、彼の店での、彼女の寝顔は、その内なる魅力を花開かせているように思えた。そのクローズアップされた時の、優しげな輪郭や、唇の柔らかな膨らみ。その唇に付いた、「残り物」であるブルーベリー・パイ。「パイが悪いわけじゃない。ただ選ばれないんだ」と言うジェレミーが、それを自ら選んで口づけをする。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)Orpheus デナ けにろん[*]

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