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[コメント] 秋刀魚の味(1962/日)

頻繁に同一語句を反復する台詞回しが刻む小津的リズムはカット割にも表れ、効率的に物語を語る上では幾らか不要な(この「幾らか」という微妙さが絶妙なのだが)筈のカットが映画的時空間を現出する。不気味な傑作。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この異貌の映画的時空間は、冒頭に於ける、笠智衆の職場の傍にある工場地帯の光景と、そこから聞こえる騒音の一定したリズムによって早々に立ち上がる。煙突の赤い縞模様が、目に飛び込んでくる、といった印象なのだが、全篇を通して色彩が異様である。故に、ラストシーンの、笠が帰った自宅が、息子(三上真一郎)が眠ろうとして消灯したことでその大部分を闇の黒で覆われる光景は、一人電灯を点けて起きている笠の姿に、色彩と構図によるドラマを与えることにもなるのだ。

笠の悪友たちの猥褻な冗談は、微笑ましさよりもむしろ不穏さを作品空間に漂わせる。何より、北竜二が腹上死したという嘘で料亭の女将(高橋とよ)をからかうシーンや、その仕返しで今度は北が、笠の娘(岩下志麻)への縁談話は自分の紹介した娘が先に進めてしまっている、と嘘をつくシーンは、小津安二郎独得の淡々とした演出によって、容易に観客をも騙してしまう。特に第一の嘘には、「死」さえも生と同一平面に置いてしまう映画、或いはフィクションの空恐ろしさを感じずにはいられない。

そうした意味では、バーの女(岸田今日子)が笠の亡妻に似ているとかいないとかいう話も、その亡妻の姿が一度も写らない為に、類似も違いもその境界は観客に示されない(娘の結婚相手もまた、一度も写らない)。笠が偶然に再会した軍役時代の部下(加東大介)との会話は、「戦後」の時空間に戦争のそれを混在させる。また彼の、「もし日本がアメリカに勝っていたら」という仮定の話は、歴史的時空間までもフィクション化するのだ。「日本が勝っていれば今頃は私もあんたもニューヨークですよ。ニューヨークっていってもパチンコ屋じゃありませんよ」。だが店内に流れる軍艦マーチは否応無くパチンコ屋を連想させる。

岩下には、かつて類似した役柄を小津作品で演じていた原節子の、ブラックホールのような深淵に潜む淫靡さとでもいった異様な存在感など微塵も無いのだが、むしろ原の異形性が失われているが故に、娘を嫁にやった父の寂寥感は、殆ど一人芝居とも思える自己完結性さえ漂わせる笠の匠の技によって、かつてないほど純粋に貫徹されているようにも感じられる。そもそも、「婚期を逃しかけている娘を嫁にやる」という使命が物語の軸である筈のこの映画は、当の娘が画面に現れるシーンがかなり少なく、居ても存在感というほどのものは感じられないし、それが要請されてもいないように思える。岩下は殆ど、その弟である三上と同じくらいに、置き換え可能な「風景」的人物として処理されている観がある。やはり主眼は物語にではなく、純然たる映画的時空間の構築にあるのだ。

「瓢箪」という綽名で呼ばれる、笠らをかつて教えていた元教師の男(東野英治郎)は、陽気な道化者として振舞うが、彼と娘の関係性は、笠と娘の陰画として深い印象を残す。泥酔した「瓢箪」が笠らによって送り届けられた自宅は、寂れた暗い雰囲気であり、特に、迎えた娘(杉村春子)の、最初のカットから既に濃厚に漂う憂愁と、人生の全てが生きながらに終焉したような陰鬱さは、衝撃的とさえ言っていい。妻を亡くした為に「あいつをつい便利に使ってしまって」と悔いる「瓢箪」にしても、笠が旧友らと集めた金を「瓢箪」の自宅兼ラーメン屋に届けに来るシーンでは、やはり卑屈なまでに謙虚かつ陽気に振舞いはするが、笠が再会した元部下と出て行った後、独り腰を下ろして溜息をつく「瓢箪」の姿には、娘のそれと同じくらい深い陰鬱さが漂う。この溜息は、再び独りになったことの哀しみからか、或いは逆に、陽気に振舞うことそのものに疲れていたのか、観客には窺い知ることができない。

この、独り腰をおろして憂愁に沈むというカットは、構図は異なるが、ラストカットの笠が反復してもいる。加えて、「瓢箪」の溜息からは、『晩春』のラストシーンでの笠を想起せずにはいられない。だからこそ、本作の笠が「瓢箪」との一致を回避しえたことにこちらも安堵させられるのだが、と同時に、娘を嫁にやるというミッションの成否に関わらず、いずれにせよ娘の父親は最後は独り憂愁に沈むしかないのだという苦い認識を噛みしめることにもなる。

笠は「瓢箪」を反復しかけ、故に反復を避けることになるのだが、最後に見せる憂愁はやはり「瓢箪」を反復しているようでもある。笠がバーの女と亡妻との類似を指摘したが故に、その女を目にした息子(佐田啓二)はその類似性を否定する。台詞に於ける同一語句の反復はリズムを刻み、ドラマに於ける反復は、元よりオリジナルというものを持たないことで成立する映画的空間を構築する。バーの女のどこが亡妻に似ているか。笠は「俯くとこの辺りが似ているんだ」と顎の辺りを手で示す。そんな微妙な外観が、或る像が成立しているか否かを決定する。それはまさに映画の自己言及ではないか。

……といった感想を抱きつつこの映画を回想していて、ふと題名のことを思い出し、自分が重大な見落としをしていたことに今更にして気づいた――「劇中に‘秋刀魚’って出てきてたっけ?」。まぁ、『お茶漬の味』的な比喩が暗示されているということでいいのかも知れないが。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)irodori 緑雨[*] 3819695[*] ぽんしゅう[*] TOMIMORI[*] けにろん[*]

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