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[コメント] 夢(1990/日)

オムニバスというより、一人の主人公による時空を超えた旅。夢というより、自然観や死生観を描いた寓話。題名は『花』が相応しいかも知れない。散っては再び咲き誇る生命。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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一話「日照り雨」で、少年は母の禁を破って狐の嫁入りを見てしまう。母は、命懸けで狐に謝って許しを得ない限りは、家に入れてあげません、と彼を追い出す。これは、続く七話全体の始まりでもある。自然への畏れを知らぬ少年が、花畑を通って、狐の住み処である虹の下、という、実在しない彼岸の方へと向かい、最後の八話「水車のある村」で、老人(笠智衆)から自然への回帰を教えられ、かつてその土地で死んだ旅人の墓に、一輪の花を手向けるまでの旅。

自然という主題は、四話「トンネル」を除く全ての物語に表れており、これと五話「鴉」、「水車のある村」以外では、荒ぶる自然として描かれる。六話「赤冨士」で原発の爆発、七話「鬼哭」で原水爆の投下による放射能の脅威を描いたのち、水車村の老人に「電気など要らない。夜まで昼のように明るくては困る」、農作業の動力にしても「牛もいれば、馬もおる」などと言わせている所からも分かる通り、個々の物語は、主題を描く為に起承転結の流れに沿って配置されている。

「鴉」ではファン・ゴッホ(マーティン・スコセッシ)の台詞に、このような言葉がある――「絵になる風景を探すな。よく見ればどんな自然も美しい。私はその中で自分を意識しなくなる。すると自然は夢のように絵になっていく」。人智を超えた自然への畏敬、無為自然の生き方という、映画全体の発するメッセージを、この、浮世絵という絵画芸術に触れたことで日本に憧れ続けていた西洋人である彼に言わせる所に、芸術へ寄せる黒澤の希望を感じ取ることが出来るだろう。

黒澤自身、画家を志していた人で、映画制作に先立って色鮮やかなイメージ画を描いていた。ファン・ゴッホを思わせる、とも言っていい、太くエネルギッシュな筆致。この映画でも同様なのだが、僕にはどうも、余りに「絵に描いたような自然」への讃美が気になる。放射能で巨大化したタンポポを「片輪」「化物」と呼び、諷刺的なオブジェとして捉えるその姿勢は、例えば宮崎駿が『風の谷のナウシカ』で、グロテスクとも見える巨大な昆虫を少女が愛でる、という、常識的な美意識からすれば倒錯的なイメージによって、人が善しとする自然観へのアイロニーを感じさせてくれたのとは対照的だ。

また、純粋に画的な印象で言っても、この巨大タンポポがバーン!と派手な効果音と共に登場するショットは、その周りに比較できる物が無い為に、花の異常な大きさが伝わらない。岩場に咲いているだけなので、遠近法的に大きく見えているようにも思えてしまう。二話「桃畑」の花吹雪は、花の美しさがまるで撮れておらず、少年が最後、無残に切られた木々の中にとり残された場面で流れる音楽も、余りに説明的で煩く感じられる。三話「雪あらし」の雪女も、イメージ画では緑色をした恐ろしい形相で描かれていたにも関らず、単に綺麗な原田美枝子が出てきただけで、印象が薄い。最後に一行が命拾いする場面で流れる音楽も間が抜けている。多少無理をして善意を働かせれば、その余りにハッピーエンド然とした紋切り型の旋律が、却って安直な感情移入を拒否していると取れなくもないのだが。

だが、「日照り雨」での、花畑を歩く少年の向こうにかかる大きな虹だとか、「トンネル」での兵士の青ざめた顔、黒く落ち窪んだ目、「鬼哭」での、血の池に映る鬼たちの影など、それこそ夢に出てきそうなイメージ群には、まだまだ黒澤の天才がギラギラと輝いている。「トンネル」で、寺尾聰の声が、一瞬遅れてトンネルに重々しく反響する所など、トンネルの深さが音響的に感じ取れ、地獄の底に響く幽霊の声のような哀哭として耳に残る。

(評価:★3)

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