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[コメント] 生きものの記録(1955/日)

妄想ではなく、感受性の問題としての、強迫観念。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







水爆が生んだ混沌の権化、この爺さんは(ボイス母さんも仰る通り)ゴジラなのだ。自身が守るべき家族から、金銭や住環境を奪い、挙句、自らの経営する工場を焦土と化し、工員達からも生活の糧を奪う。

ただゴジラと違うのは、破壊衝動に任せた行為ではなく、むしろ守ろうとした行動が、却って逆の結果をもたらした、という所。爺さんは、自分の手に負えない脅威に、小さな「生きもの」として必死に抗った挙句、その無理が祟って、日常の生活環境を破壊し尽くしてしまうのだ。脅威をリアルに受けとめる、旺盛な生存本能が、逆説的にも、未だ「可能性」の域にとどまっていた脅威を、爺さんの影響力の及ぶ範囲で現実化してしまう。

医者が言う「こんなご時世に正気でいる我々の方が狂っているのか…」という疑問は、水爆が、現実に存在する脅威である事から一定の説得力を持ち、また、爺さん自身も、自分が多少常軌を逸している事は自覚しつつも「だが水爆は現実にあるんじゃ」と訴える。彼が狂人だとしても、その強迫観念の源は、「CIAに発信機を体内に埋め込まれた」とか「金星人が電波を送って私の意思を操作してくる」といった類いの妄想ではない。要は、現実の脅威に対する感受性の問題なのだ。

最後の「地球が燃えとるッ、地球が燃えとるぞ!」は名場面だと思ったけど、これをなぜ、最後にワイプで流すなどという愚行を…。僕がやるなら(と言うのも僭越ながら)突如暗転させ、数秒間、真っ暗な映像が続く、とでもしたい所なんですが…。恐らくはこの場面と、それに続いて原田(志村喬)が無言で階段を降りて行く場面との間にある時間性、ひいては原田が爺さんの姿を脳裏に焼きつかせたまま、やり場の無い感情を引き摺りつつ階段をトボトボと降りて行く状況を演出しようとした、と推察しますが、やはりワイプのせいで、爺さんの絶望感がスルーッと流されてしまう事への残念さが拭えない。三船敏郎の演技は素晴らしいのに、勿体無い。

ただ、最後にこの原田とすれ違いに、子を抱いた女が階段を上っていく光景に、ほんの少しの救いのようなものを見せた所は良かった。爺さんも、裁判所で、家族にジュースを買ってきてやったり、工場の人達との楽しい休暇の写真など、本来は皆の幸福を願う人間である事は、充分に描かれていたのだから。ただ、勢力溢れた爺さんは、自分の手の及ぶ範囲の人間を全て抱え込まずにはいられなかった。この「支配欲」「生存本能」こそが実は水爆を生む元凶でもあったのではないか、とそこまで描いていれば良かったのにな、と。

それにしても、黒澤明の描く庶民って、『生きる』でも思った事だけど、単に「そういう役割」を与えられているだけの存在で、「住民A」とか「息子B」とかで済むような、類型的な記号に見えてしまう。だから、そんな記号人間に取り囲まれて右往左往する爺さんの奮闘も、周りの登場人物が血肉を与えてくれない。黒澤明は、表面的な所を緻密に作り上げる職人気質は持ち合わせていても、何か根本的な所での繊細さというものが欠けている気がする。それに、家族たちのジメジメした情緒や、ヒステリックな爆発が鬱陶しくて、こんな高温多湿な気質の国民が住む国からは逃げ出したい、という、別の意味での移民願望が芽生えてしまう。

(評価:★2)

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