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[コメント] 羅生門(1950/日)

道徳的な「通過」儀礼の場としての門、という一点で、芥川の『羅生門』から題名と共に門の象徴性を継承した事には納得がいく。世界の廃墟のような羅生門の造形。天罰のように激しく地を叩く豪雨。
煽尼采

そうした視覚的な終末観だけで説得力を持たせ得るのに、「あんなに恐ろしい話を、聞いた事が無い」、「人が信じられなくなりそうだ」云々、饒舌な台詞が説得力を水増ししようとするせいで、却って印象が薄まってしまっている。何度、彼らに対して「お前らの心情は、ひとこと言やぁ分かるんだから、ちょっと黙って映像に集中させてくれよ」と突っ込みたくなった事か。僕がラストを気に入らない決定的な理由も、台詞でゴチャゴチャ言っている事。

饒舌な「語り」による劇的な運動性を持たせようとする演出は、恐らくは黒澤が何度か映画化しているシェイクスピアに影響されてではないかと僕は思うのだけど、そうした手法が有効なのは、舞台の板という情報量の少ない場で役者の生身の語りの身体性に依拠するか、紙の上の活字という、読者の脳内イメージを掻き立てる媒体によるか、の場合であり、元々情報量の多い映画では煩く感じてしまう。黒澤と同じくらい単純素朴なヒューマニズムを描く映像作家は他にもいるのに、黒澤が特に説教臭いと言われるのも、映像で語るだけでは飽き足らずに言葉でも必要以上に語る鬱陶しさが働いての事ではないかな、と、今回この作品を再見して、ふと思った。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)緑雨[*] Lostie 3819695[*]

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