コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 誰も知らない(2004/日)

かつて、かのサルトルは、「飢えた子の為に、文学は何が出来るのか」と問うたというけれど...
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







例えばそうした飢えた子のような、世の中から見捨てられた存在を世に知らしめるという事、これは文学(広く言えば芸術)の働きの一つだろうし、更に言えば、飢えた子にパンを与えるような行為そのものが、一つの美的な行為の一つだとも言える。或いは逆に、パンが十分に与えられているにも関わらず、自分が生きているという感覚が得られない子や、自ら命を断とうと考えてしまう子には、これ以上パンを与えても意味が無く、むしろ、心に抱えている何物かを他者と共有する事が出来るような窓口、例えば芸術が、その命を救う事にもなるのではないか。無論、芸術がパンの変わりになる事は絶対にありえない事だとしても。また、想像力や同情の念を持つ事が、自分の持っているパンを子に与えない無慈悲さを隠す欺瞞の隠れ蓑となる事も、時にはあるのだとしても。

前置きが非常に長くなってしまったけれど、上記のような事を思ってしまうのは、この映画が、周囲の人々の悪意や無関心に子供たちが追い詰められていくような話ではないからだ。バイトの青年から、コンビニで余った食品を分けてもらったり、母の前夫から、なけなしの金を貰えたり、たまたま知り合った少女が、簡単な援助交際で稼いだお金を渡してくれたりと、皆からはパンの一切れを与えてもらえている。そうした、緩やかな善意に包まれながらも、非力な子供たちの人生に深く関わろうとする人間は、一人も居ない。また、その役割を全て母親に押し付けて良いのかという疑問もまた、湧いてくるのだ。彼女の言う「あんたのお父さんが勝手に居なくなるからじゃないの」「私は幸せになっちゃいけないの?」という怒りは、正当性の欠片も無いとまでは言い難いからだ。そうして、大人たちが少しずつ回避していく責任は、全て子供たちに重圧となって圧し掛かっていく。

パチンコ店で働く、母の前夫に金を無心に行く明が、駐車場で車に一人残された子供とニラメッコをする場面や、イジメや援助交際といった社会性を孕んだ描写に、やや表面的であざとい印象を受ける人も居るかも知れない。だが、一つ一つの場面の積み重ねによって、この映画全体の、何かに手が届きそうで届かないもどかしさは、巧みに演出されている。

長女の京子が母にマニキュアを塗ってもらう場面。母が突然、姿を消した時、その母の愛情の名残としての、このマニキュアの鮮烈な赤がとても印象的だ。この時は一度帰宅する母は、京子がマニキュアの瓶を落として床を汚した事を怒る。その場面で、京子がそっと指にマニキュアを付けると、まるで指先を切って血が出たように見える。映画全体の中でも、この辺りから、自由奔放な母の言動が、決定的に子供たちを追い詰めていく状況が表立ってくるのだ。

長男の明が、遊び仲間たちから、コンビニで万引きをするよう求められた時、彼は店員の姿を遠くから見、結局、仲間の求めには応じなくて仲間外れにされる。それは、一度万引きの濡れ衣を着せられそうになった時、バイトの女の子が助けてくれ、店長も素直に謝ってくれた記憶が甦っていたからなのではないか。そもそも、明が遊び仲間を求めたのも、そうした他人との心の繋がりに飢えていたからかも知れないのだ。だからこそ、ゆきが命を失いかけた時に、そんな彼でさえもコンビニで妹の為に万引きをしてしまう場面は、微かに信じられた繋がりでさえも、結局は無力だったのだ、というやるせなさを感じさせる。

タイトルに反して、子供たちは色々な人たちから「知られて」いる存在として描かれていて、周囲の人々も子供たちに、少しずつ優しさを与えているのである。が、結局はそうした優しさを掻き集めても、一人の少女の命を救うには、ほんの少し足りなかった。この映画は、絶望を描いているのではなく、ほんの少し、だが決定的に欠けている希望を描いているように思えた。それは、少女が亡くなった直後に届けられる母親からの送金に、端的に象徴されている。

全く異なる理由から、共に学校に行けない明と紗希が、最後、どちらも泥だらけになってモノレールの座席に座っている姿は、明とその兄弟たちが行きたがる学校ですら、紗希のように居場所を失う子供が居るのであり、どちらも見捨てられた存在なのだ、という同等性が示されているのだろう。

飛行機、駅の改札口、モノレール、更には自転車に至るまで、この作品の中では、乗り物は特別な解放感を象徴しており、同時に、世界の茫漠とした広がりと拒絶、そしてそれと対照的な、子供たちの世界の、息の詰まるような狭さを感じさせる。モノレールで空港のそばに行くのがせいぜいで、明以外の子供たちにとって唯一の乗り物が「スーツケース」だというのは、マンションの一室で息を潜めて生きる彼らの、暗く狭い場所に閉じ込められた生を暗示しているように思えてならない。

カップ麺の空きカップに植えられた種はこの子供たちの姿そのものであり、その即席の鉢がベランダから一つ落下して崩れる様は、椅子から落ちて命を失うゆきの姿でもあったのだろう。だからこそ、最後、明と紗希が泥だらけになっているのは、命と引き換えに鉢=閉じられた生活空間から出たゆきの土を被ったかのようにも見える。だがまた同時に、彼ら二人もまた、土に埋まり、息を潜める種としての子供なのだ。ゆきは、映画の冒頭で、他の兄弟たちと同様、スーツケースに隠されて部屋に運ばれ、最後は、スーツケースに入れられて、空港のそばに埋められる。「誰も知らない」ままに、種の硬い殻から芽を出す事のないまま、土の中に埋められるのだ。

紗希が部屋を訪ねてきた時、床に落ちているクレヨンを踏んで、それをテーブルに戻すと、そこには残り少ない紙幣と硬貨が置かれている。クレヨンは、磨り減って、小石のようになっている。それを使ってゆきは、料金滞納を報せる通知書の裏に、紗希の絵を描いている。この場面があるからこそ、紗希が中年男とカラオケに行って稼いだ金を、明に渡そうとする場面に説得力が有るのだが、そこで明がそれを受け取るのを拒むのは、何か、そうして簡単に金が稼げてしまう事への反撥があったように見えた。彼は、望んでも法律上、バイトをする事も許されないのだから。しかしまた、この援助交際での金が、最後にはゆきの為に使われるのもまた、一連の流れの中では必然性が感じられる。また、一度拒絶した金を受け取るという行為自体、明の中で何かがまた一つ崩れた事を表しているようにも思えるのだ。

最後に指摘したいのは、この映画、逞しく兄弟たちを支えているように見える長男の明が、自分が一家の大黒柱のようになるにつれて、責任感と同時に、兄弟たちにストレスをぶつけたり、勝手に部屋に遊び仲間を連れてくるといった、横暴さを見せてくる、という点も、一つ、大事な所ではないか。その姿は、「生活費は渡してあるんだから、その分、外では私の自由にするわ」といった様子の母親のありようと、どこかダブるものがある。その母親もまた、寝床で理由の窺い知れない涙を流している。どの立場の人間も、大人も子供も、それぞれ生きる事の苦しみや閉塞感を抱えているようだが、その心中は、本人以外、「誰も知らない」。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)G31[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。