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[コメント] フィラデルフィア(1993/米)

法廷闘争の映画という以上にこれは、法廷劇という体裁を通じての「対面」の映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







町の人々の、ごく卑近な生活の光景を次々と映すプレタイトル。被写体である彼らの内の何人かはカメラの方へと顔を向け、手を振る人さえいる。そして本編の導入部は、法廷で顔を至近距離で突き合わせて話し合う、判事、ジョー(デンゼル・ワシントン)、アンドリュー(トム・ハンクス)。その三人のクローズアップ・ショット。こうして、「対面」と「視線」の映画としての姿勢が最初から明らかにされている。法廷でも、冒頭で陪審員に向けて原告被告双方の弁護士が語りかけるシーンでは、ジョーと相手方女性弁護士が、こちら側(=陪審員側)に正面を向いて話しかけるバストショットが挿入される。

アンドリューが、勤める弁護士事務所で昇進を告げられるシーンでは、冒頭の法廷シーン同様に、彼を取り囲み祝福する同僚たちとアンドリュー自身のアップが挿入される。一転して、彼らからアンドリューが解雇を告げられるシーンでは、同じくアップが多用されるが、アンドリューと彼らの間は、長い会議用テーブルによって隔てられ、アンドリューが命令通りにブラインドをかけたガラスにぼんやりと透けて見える人影は、アンドリューの孤独を際立たせる。アンドリューの元同僚らが、スポーツ観戦中にジョーからの宣戦布告を受けるシーンでは、狭い通路で彼ら同士が顔を突き合わせて語り合う。そして、法廷でアンドリューが、ジョーの質問に答える形で弁護士時代を回想するシーンでは、「理想の弁護士だった」と名指しされた、当の被告である元上司のアップが挿まれ、他の元同僚たちの表情も、悔恨や改心にまでは至らないにせよ、幾許かの動揺が見てとれる。

アンドリューが、同僚たちを訴えるためにジョーの事務所を訪れるシーンでも、二人のアップが挿入されている。ジョーは、アンドリューから「エイズなんだ」と告げられた瞬間、動揺した様子で、アンドリューと握手していた手を気にし、着席してからも、アンドリューが机に野球帽を置いたり、事務所に置かれた葉巻を触る様子をいちいち目で追うジョー視点のショットが挿まれる。その時、ジョーの妻子の写真が飾られているのを目にしたアンドリューがそれに言及するのだが、このことで、「感染」という不安をより強化するものとして「妻子」を作用させている印象を受ける。

一方でアンドリューは、ゲイであることを含め、彼自身の家族からは温かく受け入れられている。勝訴の後、ジョーがアンドリューの病室を見舞うシーンでは、最初はアンドリューと接触することを厭っていた彼が、自らの手でアンドリューのマスクを外してやる。そしてアンドリューと正面から向き合って言葉をかけるジョーのアップ。このカットは、ジョーの後にアンドリューの家族一人一人が、同じようにアンドリューと正面から顔を合わせて挨拶を交わしていくカットを補強する。そして家族たちも去った後、最後にアンドリューと顔を合わせるのは、恋人のミゲール。ここでミゲールのアップも挿入される。

ジョーはこのミゲールに「これでもう逝ける」と告げ、その言葉通りに息を引き取ることになるのだが、この最期の時を看取ったのが、家族でもなければ、法廷で共に闘ったジョーでもなく、ミゲールであることも大事な点だ。裁判の準備に気をとられている様子のアンドリューに対しミゲールは、「僕たちの時間が欲しい」と訴えていた。それに対してアンドリューは、残された時間が少ないからだな、と答えてみせる。「ストレスは病状を悪化させるのでは?」という被告側弁護士の言葉通り、法廷でのプレッシャーに耐えかねた様子のアンドリューは、裁判中に昏倒してしまう。そして勝訴は、当のアンドリュー不在の内に訪れるのだ。

アンドリュー自身、彼の自宅に訪ねてきたジョーが法廷での質問の練習をしようとするシーンでは、質問への答えの代わりに何度も個人的な話を返し、遂には愛するオペラの歌詞を朗読しながら恍惚とした状態となってしまい、やむなくジョーはその場を去る。アンドリューの効用に合わせて室内の照明は赤へと変じ、そこから抜けたジョーが出て行き苦笑する場は青い照明と、二人のテンションは対照的に描かれている。これは、二人の関係が飽く迄も「法」の認める権利に関わる面に限られていることを感じさせる。

実際、アンドリュー自身はゲイを毛嫌いしており、バーで男たちにゲイの仲間呼ばわりしてからかわれた時も、「俺もゲイは嫌いだ。だが法が犯されたんだぞ」と反論する。ジョーが買い物中に、法律を学んでいるという青年から声をかけられるシーンでも、話が法的権利うんぬんから、性的な誘いへと変じた途端、ジョーは友好的な態度を一変させて激昂する。このとき二人の間は商品棚に隔てられており、そこに並べられた商品の列を崩すという派手さでジョーは青年に掴みかかる。この派手なアクションは、ジョーが法廷で証人に対して「貴方はホモか?カマ野郎なのか?」と詰問するシーンとひと繋がりのものだ。ゲイを弁護したことでゲイ呼ばわりされることに苛立つジョーは、「俺はゲイじゃないし嫌いだ」という怒りがそのまま差別意識への怒りへと、「法廷に性的嗜好への好奇心を持ち込むな、誰に対しても法は法だ」という怒りへと転換していった観がある。

ジョーは、「TV guy」として顔が知られ、周囲の人間からも頻繁に声をかけられ、また彼自身もやたらと名刺を配りまくる宣伝熱心な男。「顔」の画にこだわる本作のもう一人の主人公に相応しい設定と言える。法廷シーンでも、陪審員や傍聴者一人一人の顔が丁寧にショットに収められていく。証言台に立ったエイズ患者女性は、アンドリューのエイズ感染を見抜いたらしい人物について、「私の顔を見るたびに、‘このエイズ女にはうんざりだ’という顔を」と証言する。アンドリューが感染を見抜かれたのも、「顔」の痣からだった。

アンドリューが裁判について家族に報告するシーンでは、ホームビデオの撮影という体裁をとったカットが挿入されているのだが、ホームビデオという要素もまた、誰かの「視線」という主題に沿ったものだ。更に、ラストシーンでは、アンドリューの幼少時代のホームビデオが使われている。ここで想起されるのは、ジョーの口癖である「私を○才の子どもだと思って説明して下さい」という台詞だ。エイズ患者としてのアンドリューが事務所に訪ねて来、ジョーの妻子に言及した際、戸惑いと拒絶感を隠し得ない様子だったジョーだが、子どもにも分かるように説明してくれ、という台詞によって、アンドリューの権利を主張してもいく。そして、陪審員たちが評決を下すシーンでは、その中の一人が冗談めかしてジョーの口癖を真似てみせ、被告側の言い分の矛盾を指摘してみせるのだ。

「子ども」というテーマは、作品の前面に表されたものではなかったが、「right(正義・権利)」は子どもにも分かるほどに明白かつ基本的なものであってほしいという、一つの願いをそこに感じ取ることが出来るのだ。原告側の弁護士(=ジョー)は黒人、彼と対決する被告側の弁護士は女性、という配置も、「肌の色や性別に関わらず」保護されるべき権利の獲得の場としての法廷という劇を成立させるものであっただろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ありたかずひろ[*]

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