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[コメント] ピアニスト(2001/仏=オーストリア)

人は誰でもピアニスト。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ピアニストは譜面を読み、それを演奏する。劇中の言葉にあるように「譜面通りに曲を弾けばいいのではなく、自分の解釈で演奏する」のがピアニストだとするならば、ピアニストとは音楽を通して自分を表す「表現者」と言えるだろう。

この映画の主人公のエリカもまた「表現者」であった。それはピアニストとしてではなく、実生活において自分の思いを表現する者という意味においてである。エリカの行動を振り返ると、どれも自分自身を表現するための行為であり、そんな彼女は言わばピアノのない「演奏」をしていたと言えるだろう。しかしエリカは自分の思いを伝える「表現者」としてはまったくのど素人であった。「シューベルトには極端な強弱の表現が必要」とエリカ自身が語ったように、思いを伝えるのにも強弱という加減が必要だった。おそらく経験のないエリカにそんな加減などわかるはずもなく、いきなり全開で自分のすべてをさらけ出してしまったのだ。しかもエリカは男女の愛という「譜面」を間違って解釈しており、それを強弱の狂った「演奏」で、初めての恋という「曲」そのものを台無しにしてしまったのだ。

エリカがそんな「表現者」だとするなら、人は誰でも多かれ少なかれ自分を表そうとしている「表現者」なのではなかろうか。現にこうしてキーボードを叩き、自分の考えを文字に表現しようとしている私たちの行為は、どこかピアノの演奏に似ているような気がする。ピアニストが譜面を読み、それを自分の解釈で演奏する「表現者」だとすれば、私たちは映画という「譜面」を読み、それを自分で解釈し、コメントという「演奏」で自分を表現している「ピアニスト」なのだ。(そんなカッコイイもんじゃないって?いいんです、私の解釈だから)何もコメンテータに限ったことではない。人はみな、誰かに自分の思いを伝えようとするとき「表現者」になる。言葉にせよ、文字にせよ、それは「演奏」の一つであり、その時人は誰でも「ピアニスト」なのだ。

ラストシーンで、エリカは心の痛みを我々に体現して見せてくれる。この場面は、これを見て痛みが解らない人はいないと思えるほどわかりやすい。思えばエリカのそれまでの目立った行動もわかりやすかった。(その正確な意味は不明でも)人の内面は外から見ただけじゃわからない。しかしこの映画は、人の内面を行動として我々に見せているように感じられる。これをピアノの演奏に例えると、わかりやすい行動は強弱の「強」の部分といえ、逆に微妙な変化しか見せないエリカの表情は「弱」の部分と言えよう。そう考えてみると、この映画そのものが「曲」のように思えてくる。そうだ、この映画は、目には見えない「音楽」というものを「映画」という形にして表現しようとしたハネケ監督の野心作だったのだ。「ピアニスト」というこの映画のタイトルは、映画という「演奏」を作り上げたハネケ監督そのものだと言えるのではないだろうか。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)TOMIMORI[*] けにろん[*] レディ・スターダスト

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