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[コメント] バリー・リンドン(1975/米)

ジョン・ウーとキューブリック。二人を結ぶ意外な接点に、この映画を読み解くヒントがあった。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







初めて観た時は、正直言ってこの映画のどこが面白いのかさっぱりわからなかった。

主人公バリーは決して悪人ではない。彼はいくつもの決闘や戦争を経ているが、劇中では誰一人殺してはいないからだ。そんなバリーがやった悪事といえばイカサマだけなのに、なぜ彼は息子を失っただけでなく、自らの片足まで失い、ついには貴族社会からも追放されるという無慈悲な仕打ちを受けなければならないのか。本当の悪人は、戦争で人の命を駒のように消費する支配階級なのに、悪人ではないバリーだけが報いを受けるという不条理に、面白いどころか憤りしか感じることはできなかった。

そんな私を導いてくれたのはジョン・ウーだった。それは日曜洋画劇場で「MI:2」を観ている時だった。トム・クルーズが鳩と一緒に出てくる場面を見て、そこに「バリー・リンドン」を読み解くヒントがあることに気がついたのだ。いったい「バリー・リンドン」のどこがジョン・ウーなのかというと、終盤でバリーと義理の息子ブリンドンが決闘する場面の舞台背景にそれはあった。彼らが決闘する場所は納屋であり、背後には十字の窓、そして白い鳩が飛んでいた。そう、鳩である。鳩といえばジョン・ウー、そしてジョン・ウーといえば教会である。つまり「バリーが決闘する納屋は、どこか教会っぽい」という点に気づいたのだ。

そこで私は、この映画がキリスト教に何か関連があるのではないか?と考えた。そういえば前作「時計じかけのオレンジ」も聖書を元にしており、この映画にも聖書や牧師が登場する事を考えれば、この物語に聖書的な意味があったとしても不思議ではないはず。さっそく「聖書 鳩」でネット検索してみると、鳩が意味するものは「聖霊」であることが判明した。つまり鳩とともに現れたトム・クルーズは聖霊に守られていた、と言えるのだ。だからあんな大技を・・・ってそんな事はどうでもいい(笑)。続いて「聖書 片足」で検索してみたところ、聖書の中に以下のような文章を発見した。

「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手 、片足になって命に入る方がよい。」

ここにこの映画を読み解くヒント、というか答えがあった。バリーは報いを受けたのではなく、救われたのだ!ウソと偽りの貴族社会を去ることは、彼にとって見れば汚れた世界との決別でもあったのだ。貴族とは支配階層であり、国への忠誠と名誉のために軍隊を指揮し、庶民である多くの兵士の命を浪費し、近隣の村から物資を略奪し、豪華な邸宅に住み、日々享楽にふけっている金持ちである。バリーは義理の息子ブリンドンによってリンドン家を追い出されるが、それは一見敗北のように見えて、罪深き欲望の世界からの解放を意味していたのだ。その証拠にバリーが去った後のリンドン家では、勝利者であるはずのブリンドンらが部屋の中に閉じこもり、暗い表情で伝票整理に追われており、その姿はまるで牢獄に閉じ込められた囚人のように見えるではないか。罪から解放され自由になったバリーと、罪深き支配階級に留まり続けるリンドン家、いったいどちらが幸せなのだろうか。ちなみに聖書では「イエスは盲人や足の不自由な者を神の国の宴に招かれた」とあり、逆に「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と記されている。こうしてこの映画の面白さが少しわかってきた私は、次に息子の死について「聖書 御子 死」等の言葉で検索してみた。そして見つけたのが聖書に書かれたこの文面。

「人間の本質はみなはずれた者、みな迷える羊であります。だからこそ、御父なる神はそのような迷えるしかない私たち、この罪なる人間のために尊い御子を世に遣わし、この私たちのために御子を十字架に捨てることを通して、私たちの救いをなして下さったのであります。」

そう、息子ブライアンは神の使いであり、その自らの尊い犠牲によってバリーを救いの道へと導いたのである。どうりで天使のように愛らしいはずである。(ちなみにバリーがブリンドンと大立ち回りを演じる場面で、荒れ狂う父バリーを見たブライアンは、おびえるどころか「ウワォ!パパ、すごいや!!」と一瞬だけ高揚する表情を見せる場面は、私のお気に入りのシーンである)そしてその最愛の息子の死後、バリーはブリンドンとの決闘で戦うことを放棄する。そんな彼のいる場所には十字架のような窓があり、納屋という場所はキリストが誕生した場所でもあり、そして聖霊を象徴する鳩もいる。(聖霊=ブライアンの魂)つまりこの場面は、十字架が象徴する神という「父」、バリーという「子」、そして鳩という「聖霊」の三位一体を意味していたのだ。この三つが揃うことによって、いかさまだらけだったバリーの心の中に正しい心が復活した、という見方ができるのだ。では、そもそもバリーは、なぜイカサマばかり繰り返したのだろうか。

思えばすべての災いの元凶は従兄弟のノーラだった。彼女は首に巻いていたリボンを胸元に隠しバリーを誘惑するが、そのリボンをよく見ると、柄の模様がどことなく蛇を連想させる。蛇は「時計じかけのオレンジ」にも登場しており、聖書で蛇は悪魔の化身であることを考えると、バリーは蛇(悪魔)によって災いをもたらされた、と解釈できるのだ。(そういう視点で彼らのいる部屋をよく見ると、内装の趣味が悪くて不気味である)蛇はその後も「銃」や「剣」など「長いもの」に形を変えてバリーを悪の世界へと導いてゆく。そしてバリーの結婚後は、「下半身」にいる蛇が浮気を起こさせ、またある時は「鞭」となりブリンドンを虐待したのである。そして劇中でのバリーの最後の姿に注目してほしい。彼は馬車に乗るため両手に持った杖を手放す場面で終わっている。「杖=蛇」と考えれば、彼はようやく蛇の呪いから解放された、と解釈できるのだ。救われたバリーのその後の人生は寂しいものだったかもしれない。しかし貴族という支配階級のまま搾取と戦争の罪を重ねて人の命を奪うよりは、賭博師の方が遥かにマトモな人生と言えるのではないだろうか。というわけで、この映画を聖書的に読み解くと次のような物語になる。

「決闘で死んだ父(父なる神)を持つバリーは、蛇(悪魔)に魅入られ、禁断の果実を食べてしまい(おっぱいに手を出して)追放される。(アダムの原罪)そしていかさまを学び(イエスの洗礼)、様々ないかさま(奇跡)を引き起こしてのし上がるが、義理の息子の反乱(ユダの裏切り)により挫折する。そして息子の死(御子の死)によってバリーの罪は償われ、ブリンドンとの決闘を拒否することで正しい心を取り戻し(神の復活)、貴族という災いの世界から救われたのであった(神の国へ招かれた)」

宗教に疎いので自己流の解釈ではあるが、これは聖書におけるイエスの物語を踏襲しており、悪魔に魅入られた男が自由になるまでの物語と言えるだろう。(詳しく知りたい方は「最初のアダム 最後のアダム」で検索を)物語の前半は蛇の呪いで成り上がる悪魔の章であり、物事が上手くいかなくなる後半は悪事を阻止するため使わされた神(御子=ブライアン)の章と考えれば、前半と後半で反転する物語の展開も納得できるのではないだろうか。またキリスト教は「男が罪を犯したのは女のせい」と考えており、そのせいかこの映画に登場する女性はみな罪人のように描かれている。従兄弟のノーラはバリーを誘惑する魔性の女だし、旅の途中で出会う農家の若い母親は何人もの兵士と寝る淫婦である。そしてリンドン夫人も夫がいながらバリーと恋仲になるという不貞女であり、優しそうなバリーの母親も財産のためにバリーをそそのかし、ついには病気の夫人を意のままにするため牧師を追い出す強欲女に成り下がってしまうのだ。が、それもすべて聖書自体が女性を蔑視する傾向があり、それを忠実に反映した結果と言えるだろう。

しかしながら、ご存知のようにキューブリックは無神論者である。では彼が描く聖書的な教えもインチキではないのか?という疑問が残る。そこで私は仮説を立ててみた。この物語が聖書を元にした三位一体を表しているとすれば、バリーは「父の子」であるイエスに該当する、と。(ちなみにバリーは軍隊に入って最初の食事の時、油で汚れた器を渡されるが、「キリスト」のヘブル語「メシヤ」の意味は「油をそそがれた者」だそうな)そして「バリー=いかさま師」ならば、「いかさま師=イエス・キリスト」という図式が成立する。ということはイエスの教えであるキリスト教自体もいかさまと言え、それはキリスト教に基づく国家のいかさまへと結びつく。この映画の製作時期がベトナム戦争末期だったことを思えば、「国家とは国民を扇動し戦場へと駆り立てるいかさま師だ」という皮肉のようにも受け取れるのだ。

だが、この映画の意図するものはそれだけではなかった。エンディングのナレーションは「善き人も悪しき人も富める者も貧しい者もすべてあの世」と締めくくっているが、戦争は今もなくならないし、貧富の格差は増すばかりである。そしていかさまだらけの世の中は昔も今も変わっていない。クリーンなエネルギー原発、企業の粉飾決算、実行されないマニュフェスト、オレオレ詐欺にやらせの口コミ、証拠をでっち上げる検事など、いかさまだらけの世の中は昔よりひどいくらいだ。それは国家や企業だけの話ではなく、私たち自身にも言えることだ。ブログの日記で話を大げさにして関心を引こうとしてみたり、SNSのプロフィールで年齢をごまかしたり、好きな女の子の気を引くため好きでもない趣味を始めたり、普段はユニクロなのに女の子に会う時だけ高級ブランドで着飾ったり、レンタル会員の申込書の職業欄に無職と書けず自営業と書いたり(私)と、そんな経験はないだろうか?人間とは誰でも少なからず他人からよく見られたいと思う虚栄心を持っている。であるなら、いかさま師バリーとは我々自身の姿だった、とも言えるのだ。

また、バリーは決闘によって合法的?にブリンドンを殺し、リンドン家の財産を奪うこともできたはず。でも彼はそうしなかった。理由はいろいろ考えられるが、バリーが莫大な財産を手に入れるチャンスを自らの意思で手放したことだけは確かである。同じように歴史大作であるこの映画も、より多くの観客に受けそうな娯楽大作にした方がよほど興行成績も上がって儲かったことだろう。でもキューブリックはそんな虚飾された映画を作らなかった。利益優先のエンターテイメントの世界において、キューブリックは「いくら儲かるか」ではなく、常に「自分は何をやりたいか」を選択してきた。バリーやキューブリックの選択は「人生にとって本当に必要なのものは、金や名誉で虚飾された生き方ではなく、自分を偽らずに生きる事なのでは?」というメッセージであり、そこにこの映画の意図があるものと解釈した。

ウソやいかさまだらけの世の中を、ライティングという虚飾を取り払った、自然光という偽りなき光で撮ったのがこの映画だ。しかし、そうして出来上がった映像は、人によっては地味に映るかもしれない。また、バリーの物語も地味であり、人によっては退屈に感じるかもしれないだろう。だが、ささやかな蝋燭の灯を見て、地味と思うか、美しいと思うかは、受け取り方次第なのだ。地味とか派手とか、面白いとかつまらないとか、そんな上辺だけの尺度では測れない価値もある、とこの映画は教えてくれる。いかさま師を主人公にした、いかさまな聖書を語るこの映画は、「見せかけの価値ではなく、自分にとって本当の価値とは何か?」を問いかける現代のバイブルと言えるだろう。何がウソか本当か、わかりにくい今の時代だからこそ、私たちの心が求めているのは「バリー・リンドン」のような偽りのない「本物の映画」なのではないだろうか。(2012.1.7)

(評価:★5)

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