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[コメント] シン・エヴァンゲリオン劇場版(2021/日)

なんとしてでもエヴァを終わらせたかったんだなというのはわかった。問題は、終わらせたいコンプレックスが、エヴァファンのものか庵野監督のものかが渾然一体であることだ。
ロープブレーク

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







日本神話と聖書との共通点は、世界の始まりが書かれていること。相違点は、聖書には世界の終わりが書かれているのに、日本神話にはそれがないこと。

だからなのか、日本人は世界の終わりにコンプレックスを持つ。世界の終わりの神話を僕ら/私らも味わいたいという憧れと、それは僕ら/私らの神話ではないという諦めと疎外感と。

スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーから、「なぜまた『エヴァ』をやるのか、新作をやればいいのに」と問われた時、庵野監督は「世間はそんな甘いもんじゃない」と答えたという。(現代ビジネス記事より https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81066 )

TVシリーズでは、世界の終わりは描かれなかった。そして、そのことがエヴァンゲリオンの正しい終わり方への期待を生んだ。

旧劇場版で終わりは描かれたが、それは完全な終わりの描かれ方ではなかった。エヴァンゲリオンを正しく終わらせなければ世間は許してくれない。これが庵野監督の十字架となった。

かくして、終わりに向かって突き進む、終わりを目的とした新劇場版が完成した。

確かに、エヴァンゲリオンは正しく終わった。終わり以外になんも中身のない映画だもの(SF作品として言っています。私小説としてはてんこ盛りなことを認めますが、エヴァに私小説だけを見るのかってこと)、これを終わりと認める以外の本作の鑑賞態度は存在しない。

たぶん二次創作としての後日談は、今後いくつか作られていくだろう。でもそれらは、復活の物語でもなく物語の燃えかすでもなく、単なる未練の後日談にすぎないものとなるだろう。

なぜなら、キリスト教徒でない我々にとって終わりの物語は自分たちのものではないから。

使徒だの神だのとキリスト教の意匠をさんざ借りてきて作られたエヴァだったが、ついには神も聖書も乗り越えられなかったなあ。というのが本作を見ての感想だ。

神を殺したはずのゲンドウが全能者どころか自分の野望ひとつ遂行できない単なるヘタレであるという描写は、ゲンドウやユイやシンジやミサトたちの思いや想定の外側に、キリスト教的な神は存在するというキリスト教の肯定になってしまっている。

これをヘタレ賛歌として肯定的に捉えることはできない。

なぜなら、キリスト教圏のSFは、その先に行こうという意欲で作品を生み出しているから。例えば、ブレードランナー 2049が描ききれなかった人工物と魂と記憶とアイデンティティの物語はHBO『ウエストワールド』が描いているし、人間は人間であることに最適化されて幸福を感じるように設計されている存在以上のものなのかそうではないのかという問いはNetflix『グッドプレイス』が描いている。

かつて日本が最先端だった時代のDATを後生大事に抱えたまま、失われた四半世紀を肯定されてもこまるのだ。

13番目の使徒が1番目の使徒だったという方便で、25年前の輝きを取り戻せという槍を、その間に失われた死を思えという二つめの槍で相殺し、これでチャラになったよねとばかりに、もう一度現実からやり直そうと新たな槍を用意されても、それはエヴァファンへのサービスであって、世間は許しても天は許さないだろう。終末神話を超克できない円環の神話は、たとえそれが現実志向であったとしてもやはり現実逃避である。

終末神話を超克してこそ神殺しは成就する。それが行われない限り、日本人の終末神話コンプレックスは世間に温存されたままだろう。それは、SFの最前線からの退行だ。

見終わったあと、長い間お疲れ様でしたという★5の気持ちも素直に芽生えたが、やはり★3以上は付けられない。

(評価:★3)

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