コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 切腹(1962/日)

時代劇の姿を借りた、社会の理不尽さに、やり場のない怒りを暴発させた男の映画。決して正しくはないが、さりとてその主張の鮮烈さに目をそむけることを許さない迫力があった。ずしりと重い一本。
シーチキン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







江戸幕府初期の大名取り潰し政策が生んだ多数の浪人の生活苦は、とてつもなくリアルに感じられる。そのやり場のない浪人の怒り、苦しみ、悲しみ、を仲代達矢が、終盤まではぐっと押し殺し、最後の大殺陣では一気に爆発させたかのようであった。

この浪人の苦しみはひしひしと伝わってくるし、感情論として、仲代達矢の言い分もわかるが、それでも自分が感情移入できないのは、武家社会の筋目、という点で三国連太郎演じる井伊家家老の言い分の方が筋道が通っているからであろう。

それゆえ私には、この話は「井伊家災難記」ではないのかと思える。

「切腹させてくれ」という武士にその形を整えて、思う存分切腹させてやろう、という配慮は、武士道から見れば、間違ってはいない。脇差しを貸すこともせず竹光での切腹を強要したり、「一両日、お待ちくだされ」という願いを聞き届けないのは、あんまりではないかという仲代の言い分は当然成り立つが、それは武士道とは次元が違う話、慈愛だとか慈悲とかにかかわる話ではないのか。

ただこの点は仲代達矢も承知していたらからこそ、婿の切腹にかかわった3人を襲い、髷を奪われながら腹を切らぬ、病気だと言い立てる彼らを「武士道の面目の上っ面をなぞっているだけではないか」と、痛烈な批判をしているのだろう。

だから冷静に考えれば、井伊家から見れば、「腹を切りたい」という武士の手助けをして逆恨みされたに等しいわけだ。そして仲代達矢にしてみれば、その憤懣をぶつける先が井伊家であるというのも、彼の絶望の深さの表われと共に、やはり武士であることを捨て切れない、彼の限界ではないだろうか。

私が劇中、どうも納得がいかないのは、婿の亡骸が送り届けられてはじめて仲代達矢は、婿が妻子のためにすでに刀を売っていたことを知って、「お主がそこまでしていたというのに、わしは、わしは…」と刀を叩きつけるシーンである。

刀を売り払う婿を非難するのでなく、そこまで尽くしてくれたのか、との思いでやったのだろう。ところでこの時、婿はあえない最後をとげたが、重病に瀕しているとはいえ、仲代達矢の娘と孫はまだ生きている。なのになぜ彼は、婿に倣って自分の刀を売り、彼女らを医者に見せよとしないのだろう。

劇中、売ってないというシーンもないから、売ったのかもしれないが、井伊家の三人を襲撃した時は大小とも真剣であった。とてもじゃないが貧乏浪人がいったん売った刀を買い戻せるとは思えない。それとも売りはしたが、井伊家に乗り込む前に、どこかから力づくででも手に入れたのだろうか。それはそれでまた、ひどい話だ。

そしてこのことが気にかかるから、仲代達矢の行動に一貫性が感じられない。武士道なるものに真っ向から反逆するとも思えず、娘と孫のために刀を売るなど、なりふり構わない行動をとるわけでもない。ただただ、絶望して婿の最期を看取った井伊家に、難癖をつけるのである。井伊家にしてみれば、シャレではなく、いい迷惑であっただろう。

それとも、そういう矛盾を抱え込んだ仲代達矢こそが、武士社会全体の象徴であり、だから彼が絶望に駆られて井伊家に突撃して、大暴れした揚げ句に絶命する、というのも武士社会の行方を暗示するものである、というのはうがちすぎだろうか。

この映画に5点を付けられないのは、私の中でこのことの整理がつかないからである。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (9 人)ペンクロフ[*] ぽんしゅう[*] ジェリー[*] パグのしっぽ[*] づん[*] おーい粗茶[*] 死ぬまでシネマ[*] トシ[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。