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[コメント] 愛の世紀(2001/スイス=仏)

節操のない固有名の召喚と断片的な引用によって執り行われる、仰々しい命名儀式。全てのシネアストは「隗より始めよ」。
ゴルゴ十三

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「ジュリア・ロバーツ」、「ジュリエット・ビノシュ」、「マトリックス」、「タイタニック」などの固有名は、本作と「ハリウッド」に代表される商業映画との間の在りもしない隔たりを捏造するために召喚される。そして、「米国」を「アメリカ」もしくは「北米大陸に位置する合衆国」と呼ぶことの誤謬とその指摘(メキシコはこの二つの確定記述を充たしている、というわけだ)、そしてその「米国」が自身の歴史と物語を持ち得ないため欧州のそれを買い叩くという断定、それらが執拗に強調もしくは反復されるのも政治的な目配りを付与したいがためであろう。

劇映画においては、またはゴダールも引用しているロベール・ブレッソンの用語を用いるなら「シネマトグラフの体系においては」、文字をインサートするなり画面に重ね合わせるなり、役者に台詞/引用を朗読させたりすることなどは、ある限界内において、ショットやシークエンスを名づけ、意味づける。つまり今作の至る所で認められる、節操のない固有名の召喚と断片的な引用は映像言語の意味作用においてその複層化に寄与するわけだ。

しかしこういった事態は全ての劇映画において認められるわけで、頻度における異常さは認めるにしても、根本的な新しさはない。方法論上はそうであっても、その表現としての効果はどうだろうか。やはり失敗していると言わざるを得ない。

ヴィデオという映画の外部で「映画」を語ることを目論み、また語りうると居直る、二重の意味での裏切りであった彼の『映画史』においては、執拗な反復によって、冗長さが明晰を獲得し得たのだが、ここではいささか空振りの感は否めない。というのも、とりもなおさずこれは「苦悩する映画人」を主人公に据え、表現者の孤独を外部から描く「映画のための映画」なのだ。商業映画との距離を担保するはずの、夥しい映画にまつわる「固有名」はそれに彩るを添えるに過ぎない。また断片的な引用は他なるもの(?)に開かれているというよりは、その消化不良ゆえ有名性の付与の域を出ない。否これらは周到に計算された「不能」の身振りであり、逆説的にもこの「不能」さゆえ多様な鑑賞に開かれているのではないか。おそらくこのように考えるのは大いなる勘違いであろう。

撞着語法めいた、米国に対する罵詈雑言も、その単純化と戯画化の高い代償を払うことになる。現在の同時テロ以後という状況の激変を差し引いても、フランスで生まれ、同国で教育を受け、映画人としてのキャリアのスタートが何人かの仲間でなしたハリウッド再評価であったこの男が、内なる「米国」を問うことなしに、このような表層的な批判で満足するとは滑稽ではないか。このような児戯に等しい政治的な身振りに感心する人がいるなら、おそらく彼/彼女は国際ニュースを見るにも己の実存をかけざるを得ない面倒な心性を持っていることだろう。

どうやら多くの人の興をそそっている35mmフィルムとデジタル・カメラの混合も高が知れている。デジタル技術が可能にする眩いばかりの光の氾濫はその実完全にフィルム・ムービーの論理において制御されている。根本的に異なる技術体系に属する二つの映像は、物質的変換という意味でも、また映像素材の組織化においても、一方が他方に従属する形で出会うわけだ。そうあってみればとってつけた目新しさは、表現そのものの贅沢さをしるし付けるだけだ。こういった身振りは完全に「映画」という制度に依拠するわけで、それを肯定することはあっても揺るがすことは決してない。

まあ希代の喪の作業であった『映画史』以降はこの程度のものだろう。こういった妄言を詳細に検討する十分な時間や貴族的優雅さは諸賢にはないはずだ。最後にこう言っておく、全てのシネアストは「隗より始めよ」。

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