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[コメント] 民族の祭典(1938/独)

この映画を終始支配する醜悪さから目をそむけるべきではない。
ゴルゴ十三

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画がそれ自体として存在するというのか。はからずも現代美術が獲得したもしくは担うことを余儀なくされた「自律性」と徹頭徹尾無縁であるというのに。にもかかわらず、記録映画という体裁をとることで「映画の美学」なるものを措定することを試みる許しがたい蛮行が今作である。この政治性の欠如。

ヴォルター・ベンヤミンが看破したように(彼の映画論「複製技術時代の芸術作品」は成立が第二次大戦前の混乱期つまり今作の成立とほぼ同時期ということもあり、いささか「映画」なるものもしくは「大衆」に過剰な期待を見ているが、その結論だけは現代においてもアクチュアリティを持ち得ている。)、ここではまさしく「政治の耽美主義化」が執り行われているのだ。悪しき「大衆」の組織化であるファシズムは、「大衆」が夢焦がれる「現在の所有関係の廃絶」に手をつけず、そういった権利要求の代わりにある種の表現活動を認めようとする。つまり「政治生活の耽美主義化である」。未来派がファシストであったことを想起せよ。

政治性の欠如は政治との距離を保証しない。事態はまったく逆だ。また記録映画という体裁がその明快さによって、仰々しい映画的な身振りを正当化することはないだろう。もしそうなら「映画」はすべて「記録映画」なのだ。これら二つの裏切りはただ一つの出来事の異なる側面に過ぎない。最後に、それでもなお貴方はこの二つの独立性を信じ、なおかつ大戦後の政治状況の変化で「映画」の才能が一つ失われたことを嘆くのであれば、このように言わせてもらいたい、「貴方は豚だ」と。

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