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[コメント] ヤング・マスター 師弟出馬(1980/香港)

何故、彼がチャップリンと同格なのか。
kiona

この映画、脚本なんてものがあったのかどうか疑わしいほど話が支離滅裂で、『プロジェクトA』では見られる明朗快活な物語演出さえなされていない。にもかかわらず、クライマックスが観る者に異常な衝撃を与える。何なのだ、いったい?

この、ジャッキーがスーパージャッキーに覚醒していくシークエンス。『マトリックス』がクライマックスでパクり、なお最新VFXと云百億の予算をもって目指している真っ最中の境地はに、ジャッキーはただの野っぱらで、四半世紀前に、派手なVFXも大袈裟なワイヤーアクションも用いず、ほぼ己の肉体一つで辿り着いてしまっていた――自身の肉体を超越すること。

これって実は、映画に対する原初的な欲求だった。そもそも、映画は、それまでの演劇や小説の文学性とは一線を画すモチーフを持っていた。人間が、自身を越える機能を獲得したテクノロジーを前にした時に抱いた、自身の肉体に対する変身願望のようなもの、人間の肉体が機械の如く強く、速く、そして異常に動く様を見てみたいという欲求だ。産業革命の申し子たちが機械に埋もれる日常にあって映画というメディアに期待したのは、小難しい文学性ではなく、まさに映像の中の超人だったのだ。

この頃のジャッキーは、この映画の原初的欲求に対して、チャップリンと同レベルで答えていた。そして、このクライマックスは、その最たるものだった。人間が人間の肉体を越える瞬間を演出しきって見せたのである、生身のままで。その動きは、チャップリンのそれと同じく、我々の鼓動に直接響き、鼓舞してくれる“映画の力”に他ならない。今や、映画は物語の文学性と映像の技術で生き延びているが、それらが断じて獲得しえない“映画の力”が此処にある。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)ごう[*] movableinferno[*] ジョー・チップ ペンクロフ[*]

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