コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ゴジラVSデストロイア(1995/日)

山根恵美子=河内桃子との邂逅に想ふ。(何故か、こんなところで、初代のネタバレ・レビュー。いいのか?こんなことして…)
kiona

 個人的に、初代『ゴジラ』における尾形、恵美子、芹沢の三角関係には、象徴的なものを感じずにいられない。平田昭彦演じる芹沢と宝田明演じる尾形は、実に対照的だったわけだが、誤解を怖れずに喩えるならば、自分は、前者に戦前を、後者に戦後を見る。特攻隊に殉じる若者のような悲愴感と悲劇観を持った芹沢は暗く、尾形は復興と高度経済成長を予見するような、一種、不自然なまでの快活さ、明るさに満ちていた。芹沢が散っていった日本男児の、尾形が生き延びた日本男児の象徴の様な気がするのである。

 ところで、二人から、芹沢からは消極的に、尾形からは積極的に、想いを寄せられていた恵美子は、自由意志の名の下に、尾形との結婚を望んだ。恵美子は、芹沢ではなく、尾形を選んだ。このくだりを、上記した比喩を想起しながら見ていると、自分は、毎度、毎度得も言われぬ感慨に襲われる。尾形を選ぶことにより、恵美子が戦前ではなく、戦後を選んだのだとすれば、それは断じて摂理だ。だが、散っていく者と生き延びていく者とを明確に嗅ぎ分けた恵美子の嗅覚(それは当時の女性の嗅覚の象徴だったのかも…)が、光となる快活さを選ぶことで、闇のような純朴さを捨てたと実感するとき、そこに、戦後における巨大な喪失を想わずにはいられないのだ。

 さて、この映画が飛んでもない代物である所以は、その後、この三角関係のど真ん中に、ゴジラというサムシングが爆弾のように落っこちて、メチャメチャにするという点である。それが落っこちてきたが故に、結論が出された筈の三者の関係は、大いに揺さぶられる。

 もしもゴジラが出現しなかったなら、芹沢はどうなっていただろう?やはり、自らの想いを押し殺しつつ、尾形と恵美子を祝福したに違いない。そうなれば、彼は、二人の中で緩やかに褪せ、いずれ定めの通りに忘れられていったことだろう。

 だが、それを許さなかったのがゴジラの存在だった。では、ゴジラとは何だったのか?それは未だ解らないのだが、一つ言えることは、過去からやってきた、当時の日本が埋葬しようとしていた過去からやってきたものだったということだ。その過去を再び埋葬するために、芹沢は立ち上がる。祖国を守るため?いや、違う。人類を守るため?いや、違う。自分を捨てた女の未来を守るためにだ。(ちなみに、小生は、このシークエンスで大泣きである。昨今のアカデミー賞受賞作品三千本分ぐらい泣けてしまう。)

 かくして、芹沢は、恵美子のために、恵美子の目の前で散っていった。それを恵美子はどう受け止めたのか?……描かれてはいない。描けるはずがない。何故なら、それは、恵美子個人の問題ではなく、その後の日本が、ゴジラが象徴していたものを、それを葬るべくスケープゴートとなった芹沢が象徴してものを、どう受け止めるのか?という問いだったからだ。

 さて、此処で、話はようやく本作『ゴジラVSデストロイア』に結び付く。本作には、河内桃子が山根恵美子役で出演している。お気づきの通り、名字が尾形に変わっていない。御本人が説明なさっていたところに寄ると、“恵美子は、芹沢の死に打たれて、結婚せずに、ひっそりと生きてきた”そうである。

 40年越しに明らかになった哀しい結論だった。恵美子は自らのために芹沢を喪失したという運命に囚われながら、尾形をも喪失していたのだ。尾形のような男が、芹沢のような男の屍を越えて、生き延び、高度経済成長期を支えた。だが、彼らのようなエネルギッシュな男達も、バブルが弾け、もはや消えていた。そして、恵美子だけが、再度ゴジラと向き合っていた。なんてこった、この大いなる未亡人は、戦後日本そのものではないか?

 本当に駄目な映画だが、この裏設定が語られずひっそりとあったことだけで、あって良かったと思う。

 蛇足だが、戦える男を喪失した現代にあって、ゴジラと向き合っているのは…

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (13 人)べーたん ゼロゼロUFO[*] すやすや[*] おーい粗茶[*] もがみがわ sawa:38[*] ロボトミー[*] 荒馬大介[*] アルシュ 空イグアナ[*] ジョー・チップ 水那岐[*] 秦野さくら

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。