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[コメント] GODZILLA ゴジラ(2014/米)

眼福にして、
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 1954年に戦火と水爆を象徴して誕生した破壊神が、60年代には怪獣王となって栄枯盛衰をたどり、それでもなお公害などの暗い世相を反映して破壊神から文字通りの“神”になりかわったのは、1971年のことだ。かの『ゴジラ対ヘドラ』においては、人類に揺り返す破壊者をヘドラが体現し、この公害の申し子を叩く役回りをゴジラは演じた。自らも文明の暴走がもたらした落としだねでありながら、むしろ自然界を代弁する立ち位置をとり、人類に対しては牙をむかないかわりに、近親憎悪の様相さえ呈してヘドラを八つ裂きにすることで、過ちを繰り返す人類に怒りのまなざしを向ける。以降ゴジラは、親である本多猪四郎監督がシリーズと自身の映画人生にいったんの幕を下ろすことになる『メカゴジラの逆襲』まで、地球外の侵略者に対する神ならびに人類の味方を演じ続ける。

 この70年代ゴジラ像の起点となった『ゴジラ対ヘドラ』を監督した坂野義光は、むしろ後年になって自作への思い入れをふくらませたようで、1998年のトライスター版『GODZILLA』の続編企画が頓挫した後、ほとんど外野から3D映画で『ゴジラ対ヘドラ』のリメイクを実現するべく奔走し、それが今回のレジェンダリー版『GODZILLA』の起点となった。その後、企画は紆余曲折をたどり、坂野監督は表舞台から消えた。我々日本人が想像する以上に大きな利権がからんだこの企画は、ときにきな臭い噂をも醸しつつ、最終的にレジェンダリーが主導権をにぎり、監督には『モンスターズ』で自主映画の予算をもって一応の怪獣映画を成しシリアスな演出とワンアイデアで評価をものにしたギャレス・エドワーズが抜擢された。

 本『GODZILLA』ならびに本作のゴジラ像には様々な見方が存在するだろうが、始まりは『ゴジラ対ヘドラ』だったのだと自分が思うのは、本作のゴジラとムートーが坂野ゴジラとヘドラの立ち位置をそれぞれ忠実になぞっているからだ。ゴジラは、直接的には人類を攻撃しない。原発と核弾頭を襲って人類に危機をもたらすのはむしろムートーのほうで、これを叩いたゴジラは救世主として静かに去っていく。おそらく『ゴジラ対ヘドラ』は、奇しくもレジェンダリーの思惑と遠くなかったのだと思う。権利獲得当時『ダークナイト』を成功させていたレジェンダリーが、ゴジラにどんな商売をもくろんでいたのか。『ダークナイト』で培った鋳型、絵空事にすぎないヒーローとヒールの背景に暗い世相をにじませて勧善懲悪に少し苦い味付けをする――ここには、映画史に鑑みても、世相に鑑みても興味深いものがある。

 かのトライスター版『GODZILLA』に問題があったとすれば、ゴジラを巨大生物の枠組みからどうしても脱却させることができなかった設定のリアル志向とローランド・エメリッヒによるマンガ演出の不整合がただただ中途半端な印象に終始したことだ。それにひきかえ本作は、設定におけるリアル志向を潔く放棄して、大怪獣という大嘘をひとえに超高密度のCGが醸成するビジュアルの臨場感で押し切っている。そうして誕生したニュー・ゴジラは、観客がゴジラというイコンに期待する欲求の一側面を確実に満たしており、端的に言って“かっこうがいい”。21世紀に入ってもう15年が経とうという今になって初めて、一般の観客が見ても“かっこいい”ヒーロー・ゴジラが誕生してしまった。産み出したのは、今や娯楽映画を席巻した感のあるアメコミ隆盛だ。だが、世相はむしろ911、リーマン・ショック、日本では震災・原発事故を経て90年代よりもはるかに暗いという逆説。加速する紛争時代に人々はテロを恐れながら、観客として圧倒的な破壊を欲求し、同時に現実離れしたメシアを夢見る。レジェンダリーは、本作で大怪獣の存在意義を確信したのではないか。あるいは、『パシフィック・リム』の米国内での不振と国外でのカルトな熱狂は、怪獣のニーズを確信すると同時にその有りよう考えさせるものであったにちがいない。モビルスーツ相手に手加減プロレスを演じる量産怪獣に比して、本作ゴジラのご意見無用の仁王立ちがいかに快感であることか。

 ただ、複雑に思うのは、レジェンダリーならびにギャレス・エドワーズが原点回帰つまりは初代・本多回帰をうたいながら、その実、初代を標榜する気があまり無く、ベーシックな部分で密かに平成ガメラをかすめとっていることがありありと見えてしまう点だ。始まりが『ヘドラ』であったとしても、この映画を作成するにあたってギャレスの中に何よりも大きくあったのは、まちがいない、平成ガメラだったはずだ。オープニングでゴジラを見せながらも、ムートーの話から始めてしまう展開が、何よりもそれを物語っている。ギャレスはちゃんと金子修介に仁義を切ったのかという思いもあるが、それ以上にこのごにおよんでゴジラがそしらぬふりでガメラをなぞって喝采を浴びてしまったという真実は、私を大いに複雑にさせる。いかに昭和ゴジラあっての平成ガメラだとしてもだ。なぜならば、ガメラはザ・ガーディアン・オブ・ジ・ユニバースであれば良いが、ゴジラはそうでは無いからだ。

 空母に併走されるゴジラを見て、私は、ガッカリしてしまった。私が見たかったのは、第七艦隊としっちゃかめっちゃかにやりあうゴジラなのだ。ガメラに対しては、我々人類はその巨大な甲良を見て、ただただ子供のようにのっかっていればいい。しかし、ゴジラに対しては……なるほど、この背鰭を背後から見るのも、これはこれで気持ちがいい。70年代に生まれ70年代のゴジラをも愛してきた自分に、この快感を否定できようはずがない。だが、それでもゴジラの面白さは、ゴジラがゴジラたるゆえんは、ゴジラと正面切って向き合わなければ出てこないはずのものなのだ。これは、ともすればファンの脅迫観念にすぎない。この強迫観念に駆られ我々ゴジラ・ファンは、1984年の煩悶を起点に平成シリーズで葛藤し続け、トライスター版のさらなる煩悶をはさんで、ミレニアム・シリーズでこじんまりと正解に近づけたような気にもなりながら、門外漢である北村龍平の思っても見なかった福田純復刻大セールのすちゃらか手打ち式にまたも10年間宙づりになっていた。

 ゴジラとは、何か? 結論は、何も出ていない。ろくな結論にありつけていないにもかかわらず、我々は、これをやり続けている。世間一般にとってはおよそ理解不能で、オタクの世迷い言と片づけてしまえばそれで済んでしまう代物だ。それでも我々が抜け出せないこの迷宮は、つまるところ「我々を滅ぼしに来た“おまえ”を産み落としたのは、しかし、我々自身なのだ。テクノロジーを捨てられない限り、我々は“おまえ”と戦い続けなければならないのだ」という架空とも暗喩ともつかぬジレンマを無闇過剰に意識して膨張させて悶える、ある意味SMにも似た、とはいえSFの古典とも言える倒錯遊戯なのだ。この倒錯が世間体を忘れて行きすぎた気まずい結果が、トライスター版へのアレルギーをあおって制作された1999年の『ゴジラ・ミレニアム』の阿部寛で、ラスト、彼はゴジラに向かって肉声で語りかけたあげく叩きつぶされるというゴジラ史にもひときわ黒く輝くいろんな意味での激痛シークエンスを演じたわけだが、言うても我々が求めているのはあれなのだ。いや、あれが良いと言うのでは無い。あれが良いと言うのではないのだけれども、でも、あのようなものを何とか“かっこいい”感じでやって頂けませんかというのが本作を初日に見たあとのアンケートで「日本のゴジラが復活して欲しい」と性懲りもなく答えた我々55%の魂胆なのだ。

 と言いながら、でも、それを本作に望むのは難しいであろうことも、自分はもう分かっている。このご時世にゴジラと徹底的にやりあって血みどろになるアメリカ兵をアメリカ人が見たいかと言ったら、それはしんどいと思う。何しろ連中も疲弊しており、この映画は、その手の痛々しさを巧みに回避している。あるいは、人間たちの描写が主要キャラクターも含めて薄く感じられるのも、米軍の作戦が滑稽なほど散漫に見えてしまうのも、しかたがないことなのかも知れない。ドラマ・パートは、はっきり言ってつまらなかった。金子修介はうまかったと思ったし、手塚昌明は真摯だったとも思った。主人公の一家は怪獣襲来のご都合でそれぞれそこに配置されていたようにしか見えず、渡辺謙扮する芹沢猪四郎もなんだか空疎に見えた。ラストの親子の再会など気の抜けたお約束にしか見えず、どれもが特撮パートの純度を下げていただけのように思えた。総じて人間のキャラクターが機能していなかったのだが、それがこの映画からしかるべき毒を意図的に抜いていたようにも思う。これだけ大々的に放射能をモチーフにしながら、この映画に、かの電力会社を、政治を危惧させるほどの毒や棘は無い。この点は、アメリカ上映にあたって毒抜きのアメリカ版を制作せしめた初代とは正反対の印象だが、それも宜なるかなと思う。

 この一ヶ月前に、初代のリマスターを見た。人生で7度目の鑑賞だったが、いったい自分はこの映画の何を観ていたのかと思うほど、かつてないショックを受けた。初代の着ぐるみだけが放つ異様なオーラもさることながら、人間たちの、主要キャラクターである尾形、芹沢、山根博士はもちろん、瓦礫に埋もれていく名も知れぬ母子にいたるまで、人間描写に通底する切実さに胸をしめつけられた。誰もが時代に何かを忍んでいた。とりわけ山根恵美子だ。この女性が物語の屋台骨であったことを反芻させられたのは、芹沢邸でオキシジェン・デストロイヤーを見せつけられ帰宅した彼女が誰にも何も言えずにそっと前掛けをして家事にもどるくだりだ。あのシーンの静かな悲しみと美しさ――小津安二郎だってこれほどのシーンを撮っていただろうかとさえ思えた。遙かなる初代。あれを期待するのは、もはや無い物ねだりでしかない。いや、あれが失われて久しいことなど、とっくの昔に痛感している。

 それでも、その後の作品を観続けて来たのは、まがいなりにもゴジラ映画である以上は、どれもが簡単に切り捨てられない、あるいはカテゴライズしきれない“いびつさ”をどこかに持っていたからだ。それは、本作レジェンダリー版にもはっきりと見える。核弾頭を洋上爆破させてしまう軽々しさが日本人がたった三年前にあの朗らかな水色の建屋の崩壊に覚えた恐怖とはおよそかけ離れたものである一方で、トンデモ日本ジャンジラ市のアメリカ式原発が崩壊するカットには確かな絶望感がただよっていた。あるいは、死んでいく米兵や国民の描写を回避しながらも、次々に落下する戦闘機の描写には巨大な終末感が横溢していた。にもまして慄然とすることには、ゴジラ上陸がもたらしたハワイの津波描写にはたった三年前に現実の津波にふるえた我々にさえカタルシスを与えるだけのフィクションの力が漲っていた。あるいは、この映画の東宝におけるキャンペーン部長をつとめた我らが宝田明ギャレスをチクリと刺した一言「でも、私としては、もうちょっとゴジラが見たかったね」は、「ゴジラの出番が少なかった」と言っているのでは無い。「ゴジラを(ムートーの)脇に描いたね」「ゴジラとは真正面から向き合わなかったね」と言っている。しかし、そう言いながらも、“尾形”は老骨にむち打って新ゴジラを、新ゴジラを通してゴジラそのものをアピールし続けているのだ。世界も時代も商売も巻き込んだ葛藤を露骨に反映しながら、何度でも繰り返し出現する。なんと巨大でいびつで狂った文化なのかと思う。

(評価:★4)

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