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[コメント] お早よう(1959/日)

“Good morning” に “I love you” を込めてみよう!
kiona

詰め将棋のように見事な脚本・演出だが、その緻密さに『秋刀魚の味』に通じる、妙な緊張感を味わった。天下太平の中、労働者としてのシンパシーを交わす家長達をよそに、主婦達は自分達のコミュニティーを家長達のそれからますます独立させ、井戸端における冷戦を繰り広げる始末。そんな中でも敷居を低くせざるを得なかったのは、その敷居の低さが世間と我が家を繋げる必要悪だったからに他ならない。だがその必要悪は、奇しくもテレビの普及により解消されていく。家の中に世間への扉が開け放たれ、そして今まで開け放たれていた玄関はやがて固く閉ざされることになる。そこを後にした若いカップルの描写等から、映画がそれを予見していたと言ったら言い過ぎだろうか? 少なくとも自分は、そこに『麦秋』等大家族の心情的絆を屈託なく描けたモノクロ時代からの明らかな隔世を感じずにいられない。ましてノスタルジーに浸り、微笑ましく想うことなどできなかった。

戦前から戦後、戦後から高度経済成長期へシフトする世間を見守った小津の視点は一貫して穏やかで、俯瞰的でさえあった。大向こうの流れに対して、それなりに思うところもあったと思うのだが、激しい批判や仰々しい総括が試みられることは最後まで無かった。だが自分は、穏やかさの裏に何かしらの含みを感じずにはいられない。軽石を囓っていたのが子供達だったとは知らず、猫イラズを塗ろうとした母親。不幸な事故が起きることはなかったが、子供達と親達のディスコミュニケーションを顕示するこの不穏なエピソードをどう受け止めたら良いのだろう? 教育の風潮が放任に傾いていく最中だったのだろうが、その子供達を、相応に厳しく見えた父親はついに屈服させることができなかった。いや、逆に父親の方が彼らの我が儘に屈服させられた。それがテレビを中心に巡る社会への迎合でもあったとは、何という皮肉だろう?

今やここまで合理化された社会、通り一遍の挨拶さえ欠いた隣人関係などざらだ。「それを言わなかったら、世の中、味もそっけも無くなっちゃうんじゃないですか?/その無駄が世の中の潤滑油になっているんだよ」屈託もなくこう言い放った佐田啓二がラスト前、プラットホームで久我美子に対し、“なかなか口に出せない肝心なこと”を隠しつつ投げかける“無駄な言葉”と、それにより織りなされるコミュニケーションが実に神々しいのだが、憧憬が時に現状への諦めと背中合わせの感情であることを想うにつけ、一種の悲劇観をもって、この喜劇を拝まずにはいられない自分である。

(評価:★4)

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