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[コメント] キング・コング(2005/ニュージーランド=米)

オリジナル以上にコングが描かれながら、オリジナルのようにはコングのいる世界が見えてこない。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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相変わらずバカ元気な演出だ。凡庸な大作の監督が往々にして外枠から考え、パズルの帳尻を合わせるスタンスでそれぞれの箱をやりくりしていくのとはまったく異なる演出。小学生が日がな一日プラモデルを作り続けられるのと同じバイタリティで、一つ目の箱から丁寧に丁寧に積み重ねていく演出。だから、3時間を飽きさせない。込められた精魂は確かに見え、またその限りにおいて美しい。だが、それはどこか大人気ない。

CGはコマ撮りというカメラと被写体の物理的限界を完全に凌駕し、作家の空想に臨界するべく縦横無尽に動き回る。そう、ピーター・ジャクソンはコングに肉薄するに当たり、オリジナルの作家が許されなかった領域をも許された。そして、コングを我がものとし、自らの脳内にしか介在しえなかった視点を画面に臆面も無く叩きつけていく。

竜脚類の雪崩しかり、獣脚類との戦闘しかり、複葉機との戦闘しかり――これらのカメラワークはむしろテレビゲームのそれを思い起こさせる。キャラクターの背中に張り付いてポリゴンの世界をどんなアングルからも見せてしまう。それを最高級のCGで体現するのだ。重力に囚われた技術にとってはもはやお手上げの世界である。

縦横無尽の視点は縦横無尽であるがゆえに、もはや視点であることを忘れたと言っていい。だが、そうなったとき、我々の眼はどうすれば良かったのか?ただ、問答無用に押し付けられるカメラワークを受け入れることしか許されないのか?

確かにピーター・ジャクソンの視点は面白く、また、コングを見に来た我々にコングを存分に見せてくれる。だが、この目まぐるしく動き回るカメラワークには、我々自身が我々自身の視点を置く余地が無い。作家性が貫徹され、その限りにおいて完結した段取りを展開するが故に、観客の幻想が入り込む余地が無い。

獣脚類との戦闘は確かに見所だし、確かに圧倒的である。だが、それはリングで展開されるエキシビジョンマッチにしか見えなかった。オリジナルに自分が感じたものとはまったく異なっていた。オリジナルのそれは、自分には殺し合いに見えた。或いは、動的である前に静的な緊張感があった。それを綴る作家の視点は、どこか冷徹で、紛れも無く俯瞰的だった。それ故、コマ撮りされた粘土の動きが獣の殺し合いに見え、またそれが展開される動かぬアングルに、彼らを取り巻く冷徹な世界が感じられた。その髑髏島の空気こそがコングと同等に、或いはコング以上に重要なものだったと、自分は思う。

ピーター・ジャクソンのコングは大きい。彼の想い入れの大きさそのものだ。そのでかいコングが常に画面の中心にいた。しかし、それ故に、コングを取り巻く世界はえてして見えづらかったように思う。縦横無尽であるが故に主観的、一人称、コング私小説――それはカメラワークに留まるわけもなく、物語をも支配する圧倒的な私情である。

たとえば、コングを中心におき配されたキャラクターたち――オリジナルを踏襲しながらも、真逆の発想の上に成り立っている。オリジナルの脚本が、コングが投下される現実世界と、彼を目にした人々が当然見せる反応をキャラクターに込める第一義にしたとすれば、今回の脚本はコングを人間ドラマの主役よろしくメインに据え、そこから周りを配していく。恋人の美女、三角関係の恋敵、自分を追い込む敵といった感じにだ。

しかし、彼らはコングを中心に配されたが故に、誰も彼もが狂言回しに過ぎず、自らを立てられぬままぶれていく。たとえば、あの髑髏島の状況下で、なぜ彼らは女を助けに戻ったのか?壊滅的な打撃を食らいながら、なぜ一致団結できたのか?デナムのモチベーションもリアリティを欠いた暴走を見せるし、オリジナルの監督的立場と貫禄を損ねるからラストの台詞も重みが無い。ミステリアスに見えた船長や障害に見えた船員たちも、気がつけば生死をともにしてくれているという体たらくだ。特に、なぜドリスコルが彼女に命をかけるほど惚れたのかがまったく見えない。同様にコングが自らの偉大なる生命を捧げるに相応しい相手には、どうしても見えない。そう、アンの描き方でさえ足りていないのだ。冒頭あれだけ彼女の苦境を描きながら、船に乗ってからはそれが一度たりとも生かされていないのはどうしたことか。総じて、記号が記号のままで終わってしまっているから、野獣への情にまったく乗れないのだ。

独自の観念を体現するのに没頭する余り、周りを記号のままでよしとしてしまうのが主観であるとすれば、作家性のあまり主観的となった映画はある意味幼い。少なからぬ文芸映画がどこか学生映画の青臭を残しているのは、そういうことと思う。ピーター・ジャクソンの作家性とCGは結果的にそれらとは別の結果を残し、どこに出しても恥ずかしくない商品足りえているが、この映画はオリジナルに比べたら幼い映画と思う。

(評価:★3)

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