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[コメント] 甘い生活(1960/伊=仏)

シュトロハイムの双子の末裔
ルッコラ

映画を芸術(=究極の娯楽)にまですることを目論んだ怪物シュトロハイム。早すぎた野望は、芸術の国イタリアの二人の監督によって実現される。似ても似つかないビスコンティとフェリーニ

●激しいドラマを持ち込むシュトロハイム

ビスコンティは悲劇が喜劇に。フェリーニは喜劇が悲劇に。不思議と二人の映画を観て受ける衝撃と観終わった後の温かい余韻は共通しています。しかし次第にふたりとも物語性を否定する方向へと傾いていきます。特にフェリーニはこの『甘い生活』を機として。

●執拗に人間の追求をするシュトロハイム

二人がたどり着いた「退廃」と「孤独」。ビスコンティの退廃は自らが思い知る「腐敗」。しかしそれでも抵抗を試みる。「爛熟」が過ぎ「破滅」するまであがくのをやめようとしない。フェリーニの退廃は「祭り」の後の虚脱、精一杯楽しんだ後の虚しさに、ハッと自分が「腐敗」していることに気付く。「発見」そして、とまどい。

ビスコンティの「孤独」は「失われた時」への狂おしいもがき。「愛」を求めるゆえの「孤独」。いくら手を伸ばしても届かない苦しみ。フェリーニは「祭り」でつないだ手が、終わりとともに離れてしまってから感じる「孤独」。まだ「愛」のぬくもりがあったことを噛み締めるつらさ。

●本当の「感情」と「感覚」を焼き付けようとしたシュトロハイム

感情のリアリズムはシュトロハイムがおそらく最も目指したもの。たとえ悪趣味でもどうしてもやりたかったことは、ネオ・リアリスモから出発した二人によって獲得される。ビスコンティの常に描く「敗北」は、甘美なまでの「屈辱」。まるで麻薬のような。その「感覚」の繊細さはずば抜けているというよりも他の監督には描くことの出来ない領域。誰もが隠し持っている「コンプレックス」を痛いくらい刺激する。フェリーニの「絶望」はビスコンティとは逆の「何も持たない人間」が直面する「残酷」。しかしフェリーニ映画では「敗北」を意味しない。どんな運命が待っていようと・・。またビスコンティにとって音楽は「秘密の愛」。ときには煩わしいが、フェリーニにとって音楽(=ニーノ・ロータのメロディ)は空気と同じくらいの愛=映画そして人生そのもの。「生活」のように当然のものとしての「感覚」表現。人間の「真実」を暴くというよりも、「ほらね」とさらっと見せたりする。

●映画が本物の美術であることにこだわったシュトロハイム

ビスコンティはその直系。美術は完璧に本物を用いる。舞台となる建築、衣装、宝石から旅行鞄、電話、新聞に至るまで。その全てが意味を持つ登場人物として演出される。フェリーニは逆にすべてがフェイク。チネチッタにはフェリーニ映画の巨大な廃虚(『サテリコン』)が残っている伝説まである。しかしセットにしか見えないような安物ではなく、スクリーンでのリアリティを追求する。ビニールも「故郷の十五歳の海」にしてしまう、映画の魔法。フェリーニ美術。

●贅沢な映画を望んだシュトロハイム

総合芸術としての「映画」をつくりあげた二人。尊敬するコメンテータのくろねずみ様が『8 1/2』のコメントで、ビスコンティとレオナルド・ダ・ヴィンチに、フェリーニをミケランジェロに喩えていらっしゃいました。ビスコンティ映画は、レオナルドのように職人気質、完全主義でありながら実験と妥協と挫折の繰り返し。輝くような作品なのに未完成の印象。フェリーニは確かにミケランジェロ。その映画はすでに完成されていて「天才の仕事」としか言いようがありません。そして映画(芸術)が人生のような人。最初のネオ・リアリスモの名作の脚本から初期の『』『カビリアの夜』だけでも凄いのに、この『甘い生活』からは”翼を手にした”と言われるとおりです。ビスコンティがドイツ三部作を撮るまで「成熟」を待たなければいけなかった(60歳以降)のに対して、フェリーニはこの時40歳!まさに”神のごとき〜”。ビバ!ドルチェ・ビータ!

(評価:★4)

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