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[コメント] デビル(2010/米)

馬脚を四本も五本も現してからのシャマランがいよいよ楽しくなってきた、という人にうってつけの愛すべき小品。(2013.4.6)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 タイトルの「悪魔」について語るべきことはあまりない。罪を告白すれば制裁を免れる、という、子どもが作った遊びの出来の悪いルールのような行動原理にしろ、整備士や警備員を襲う『ファイナル・デスティネーション』的な『コラテラル・ダメージ』(?)にしろ、それ自体は陳腐なものだ。この悪魔の存在を説明するのが、信心(迷信?)深いヒスパニック系、というステレオタイプはあまり感心しないし、その興奮状態の彼を事態を監視できる警備員室に一人残したりするような説得力の乏しさにはますます感心しない。しかし、陳腐さを包み隠さないことで追求されている映画のあり方そのものが陳腐なわけではない。気負いなく「悪魔」を堂々と持って来る、そんな本作のはっきりとしたB級映画のフォーマットは、シャマランが追求してきた映画の語り口に適しているように見える(ちなみに私は、化けの皮がはがれたばかりか、とうとう五本目の馬脚まで見えてしまった『レディ・イン・ザ・ウォーター』がたまらなく好きなのだ)。

 オープニングで重々しく逆立ちしていた都市が、ラストで、地に足のついた、人々の営みのある地上の光景へと戻る(シャマラン絡みという以外何の知識もなしに見たが、「やはり」と思わせる、『ハプニング』から引き続いてのタク・フジモトのよい仕事)。「悪魔がいるということは、神もいるということなのだから」という結びのナレーションとは裏腹に、私にとっては、むしろ、何の超越的な視点もない、ただ人々が織り成すものとしての、この現実の地平に対する確かな肯定として受け取れた。シャマランの作品系譜のなかでも構成と主題とにおいて姉妹編と言ってよい『レディ・イン・ザ・ウォーター』では、「人間は救われるに値するかね?」という問いが登場人物の一人から発せられていた。本作もまた、「救われなければならない」と答えるのだろう。物語の冒頭、刑事は断酒相談のカウンセラーに、本当に苦しみから解放されるには、信仰を持つ必要があるかもしれない、と言われる。「信仰」が必要になるのは、何か超越的なものをそのものとして崇めるそのためではなくて、むしろ、人々の織り成す世界から自らを引き離してしまわないため、であるに違いない。

 実際、エレベーターにおける悪魔との遭遇よりも、車内での二人の男の対峙にこそ映画の緊迫が宿る。正体を現した悪魔の陳腐さは期待通りの拍子抜けと呼べるが、しかし、そもそも、すべてをお見通しの悪魔の下す裁きなどより、一人の人間がもう一人の人間と向き合うという行為のほうが、はるかに不安に満ちた厳粛な出来事ではないか。「そいつに向かって、何と言ってやろうか、何をすべきか、ずっと考えていた。俺は、お前を許す(The thing is...I forgive you.)」。自分と同じ一人の人間に向かってこのように信頼を表明する、とは、信仰の告白にも等しい、自らを賭けた、計り知れないほどの決意であろう。この静かなカタルシスを私は愛すべきものと思う。

(評価:★3)

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