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[コメント] ウォッチメン(2009/米)

原作のエッセンスまでは失われていないが、落胆。俳優がボサッと突っ立ったまま会話を続け、これ見よがしのクローズ・アップがいちいち挿入される会話シーンのだらしなさには困惑する。(2011.8.24)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







***以下、原作コミックについての若干のネタバレを含むので、ご注意。***

 エピソードの省略・配置換えといった変更を別にすれば、私の目につく原作からの大きな変更点は以下の五つ。

(1)「ウォッチメン」という名称の扱い。(2)アクション・シーンの追加。(3)ロールシャッハのキャラクター。(4)ローリーが本当の父親を知る経緯。(5)ヴェイトがでっち上げる「共通の敵」の中身。

 (5)については、原作の結末に関わるので、ここでは詳述は避けよう。個人的には、これもありか、というところ。

(1)「ウォッチメン」という名称の扱い。

 原作では、「ウォッチメン」なる集団は登場しない。この言葉は、あのスプレー書きされる「誰が見張り(Watchmen)を見張るのか」ということわざに由来するのであって、「“ウォッチメン”はいらない」という揶揄の言葉として登場するものだ。原作では、「ミニットメン」に続くヒーローたちの会合にはコメディアンの失笑を買う別の名称があてられている。「“ウォッチメン”というのは、ヒーローたちのチームじゃなかったのか? 引喩? 寓意? なんだね、それは? 悪役コンビの名前かね!?」と憤慨する映画会社の重役が実際にいたのか知らないが、変更の理由は全く商業的なもの(=宣伝しやすい)だろう。とはいえ、些細な点。

(2)アクション・シーンの追加。

 冒頭の襲撃シーンから、はっきり言って無駄なアクション・シーンが随所に追加されている(なぜ殺されることを覚悟していたコメディアンがあの手この手で中途半端に抵抗しなければいけないのか?)。これはたぶんこの映画の一貫した方針で、路地に入り込んだダニエルたちを襲うチンピラの数まで増えているのではないだろうか。「ヒーローものなんだから、アクションが肝心だな!」とイスにふんぞり返る映画会社の重役(さっきと同じ人?)が実際にいたのか興味もないが、たとえそういう圧力があったにせよ(あるいは、あるだろうからこそ)、ヒーロー・コミックという枠組みを内側から徹底して解体した原作に敬意を表するならば、昨今のVFXアクションをなぞりつつ別のものにしてしまう、そういう批評性を以って応えるべきだったはず。代わりに見られるのが、『シン・シティ』あたりを追随するような残虐描写の増量では、「コミック映画」という先入観作りに進んで加担しているようで、悲しい。

 もうひとつ具体的に言えば、火災救出劇なんかは、もっと牧歌的に描かれるべきなのであって、カッコよくする必要は全然ないのだ。スローモーションしている暇があったら、救出される住民が目の前の現われたローリーのミニスカート姿に唖然とするさまとか、そういうところをちゃんと描いて欲しい。それでこそ、そのくらいの活躍で満足して激しく勃起までしてしまうダニエルたちの抱える、実直で卑小でさえあるが、ごく人間的な哀しさが際立って、Dr.マンハッタンという人間的感性の外へと行ってしまった存在や、ロールシャッハとヴェイトがそれぞれ違ったかたちで体現する冷酷な「正義」との対比が露わになるのである。この描き分けられるべきシーンが、「アクション・シーン」という同じトーンに染められてしまっているのは、致命的。

(3)ロールシャッハのキャラクター。

 原作では、「あの感情のない喋り方には寒気がする」などと評され、右翼的な蔑みの文句を散りばめた日記以外では寡黙を通すキャラクターなのだけれど、映画版では、なぜかことあるごとにわめき散らして、最後には今にもこぶしを振り上げて叫びだしそうになる始末。コートのポケットに手を突っ込んだまま「ふざけるな」と最後に口を開く、そういう彼の基本的なキャラクターが守られていないことに単純に驚いてしまった。あるいは、より象徴的なのは、自身が「ロールシャッハ」誕生の瞬間と語る、幼女殺害犯処刑のエピソード。原作とは処刑方法も前後の行動もまるで別のものにされていて、息を荒げて身を震わせた挙句にナタを何度も振り下ろす、という「怒りに身を任せて」風の描写は、原作の対極だ。だから、これは、描写の失敗や不足ではなくて、明らかに「変更点」なのだろう。「俺の顔はどこだ!?」と恫喝する場面も映画オリジナルで、マスクへの執着を短時間で表現するためと理解はできるが、黙認は困難。表情を示さずに(というのは、表情のないマスクこそが彼にとって「顔」なのだから)淡々と指をへし折る冷酷さが台無しなのだ。そもそもロールシャッハが全編を通して無感情・寡黙であったためにこそ、あの「何を待ってる? さっさとやれ!」という叫びが痛切たり得るのだが。余談を言えば、それを目撃していた(なんでそんなところに突っ立っているの?)ダニエルに「ノーッ!」などと叫ばせるに至っては、もはや理解不能。

(4)ローリーが本当の父親を知る経緯。

 もしかすると一番重要なことだけれど、原作では、ローリーが本当の父親を知るのとDr.マンハッタンの能力とは何の関係もない。重要かもしれない、というのは、この変更によって、Dr.マンハッタンという時間と空間を越えて遍在するかに見える存在でさえ、視点の複数性に取って代わることはできない(「全知」ではない)という、このことの意味が薄れてしまっているからである。せっかく「人間の心を変えることはできない」とまで言わせているのに、他人の記憶にチョッカイを出せるのでは意味がない。原作が「映画化不可能」(テリー・ギリアム)と言われてきたことのひとつには、たぶん、執拗に繰り返される複数人物の重層的な回想を通じてある物事が違った様相を帯び始める、というストーリーテリングを映画に置き換えることの困難があったのだろう。だから、回想の扱い方は重要だったはずだけれど、この映画版では、いかにも早分かり回想なのだ(だいいち、父親の正体なんていう発見自体は、そこに思い至るプロセスがなければ、どうでもいい話にしか思えない)。

 これと関連して来るのが、"Nothing ends. Nothing ever ends"(「終わりなどない、何事も終わりなどしない」)というセリフ。映画では、「ジョン(=Dr.マンハッタン)なら、きっとこう言う」とローリーの口からダニエルに向かって語られてしまっているが、これは原作では、ヴェイトに向かってDr.マンハッタン当人から語られる言葉だ。「最後には(in the end)」正しいことをしたことになるはずだ、と、いわば「歴史が判断する」という超越的視点を持ち出すことで自分の行いの正当性を確保しようとしたヴェイトに対して、人間的時間を越えた存在であるDr.マンハッタンが「そんなものはない」と言い残して去るのである。視点の複数性を超える「最後の」視点など現われない。ヴェイトの虚しさが言い当てられるこの重要なセリフが恋人の会話にされてしまったので、「未来は何が起こるかわからない、ウキウキ」で済まされかねないが、そういう問題ではないのだ。

 以上、不満ばかり書いてしまったが、原作を神聖視するつもりはないので、逆によかった点を一つ。女性記者から、科学者たちがドゥームズデイ・クロックの時間を進めたが、人類は滅亡直前という意見に同意するか、と尋ねられたDr.マンハッタンがドゥームズデイ・クロックなど「溺れる者にとっての酸素の写真」と同じだと答え、記者を当惑させるシーン。アインシュタイン理論に遭遇して引退を決めた時計職人の父、という挿話自体は原作のものだけれど、これに関しては効果的に配置換えされていて、原作より面白く感じた。ただし、そのあと、元恋人が「私はガンになっちゃったじゃないの!! アンタ、どうしてくれんのよぉ!?」なんて出てきて、カメラの前で感動のご対面(?)するところは、まったくダメ。キャスティングは雰囲気があっただけに残念な映画化。

(評価:★2)

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