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[コメント] 叫(2006/日)

「忘れてしまえ」/「思い出せ」。(2007.3.18)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 黒沢清作品を何作か見た人は気付くのではないかと思うが、「過去と未来」言い換えれば「現在がどこにあるのか」、というモチーフが監督の作品では度々登場している。そして、それは、ある映画においては、「忘れてしまえ」(=ゼロの地点としての「現在」の肯定)の声が痛快に勝利を収めることがあれば、ある映画においては、「思い出せ」(「過去」から逃れられない「現在」)の声が最後の最後で不気味に立ち上がる、といった具合に必ずしも統一されない形で登場していたように思われる。それが一体何を意味するのか、監督自身にとってもそれほど明確であったかは分からないが、この『』を鑑賞して、それらのモチーフの根底にあったものは、生者のイデオロギーとしての映画―延いては芸術―への反逆、だったのではないか、という確信に至った。この映画のラストでは、戦慄的な言葉が語られる。これは、今の今まで、到底映画の言葉ではなかったし、そうであってはいけなかったものだ。

「私は死んだ、だからみんなも死んでください」

 もし死者が現れてそう口にした時、一体我々は何と答えることが出来るのか。「知らない」「俺じゃない」。これは一つの取り得る反応である。しかし、果たして本当に我々の生は一切の死者と無関係に成り立ち得るのだろうか?

 赤い服の女が最初の殺人事件の被害者ではないことが判明するシーン以降、実は私は涙なしに映画を見ることが出来なかった。映画で語られるのは、湾岸の廃療養所でひっそりと孤独死した女の物語だ。フェリーの上の誰もが見ていたはずの光景。これに私は涙した。この物語に感動したと言っているのではない、これが「ありふれた」話だからこそ、身震いを抑えることができなかったと私は言いたいのだ。フェリーからあの赤い服の女を見たのは私だったかもしれない(というより、事実として私はたくさんの「赤い服の女」を見過ごして生きて来ただろう)。極端に言ってしまえば、私がある死に方を想像できる、というその事実が、そのように死んでいく人々の存在を知りながら私が手をこまねいている、という事実を表明している。

 世界のどこかで死んだ死者がある日我々の前に現れて「私は死んだ」と叫ぶ。もはや怖ろしさへと昇華するしかない、凄まじい悲しみ。生者はいくらでも自らを正当化する論理を作ることが出来る。当の殺人者であったとしても(!)。「知らない」「自分のせいじゃない」「仕方がなかった」「もう昔のことだ」。生者はそれを「過去」として、いかようにも「未来」に進むことが出来る。しかし、死者にはそれが出来ない。絶対に出来ない。死者の時間は止まったままなのだ。「幽霊」という存在が怖ろしいのは、結局、この絶望的なまでの非対称が露となることにあるのではないだろうか。本来どうやっても死者は生者に敵わないのだ。生者は生者であるというそれだけで死者に対して無限に傲慢な存在である、というそのことが突き付けられる。死者が何かのきっかけでひょっこりと生者の前に現れて口を開く・・・そして、もし我々が「未来」へ進むことを許してくれなかったら・・・。

 この映画は開発の傷跡(過去)と継続(未来)とが混在する湾岸地域を舞台に描かれる。奇妙な話だけれど、私がこの映画を見て思い浮かべたのは戦争の死者たちだった。「戦後復興」という言葉に象徴されるように、この国の人々は国内外に数千万もの死者を出した戦争を「過去」として葬ることによって、今のこの生活世界を築き、そこに生きて来た。そして、今もいかなる形であれ、‘その上’に「未来」を築こうとしている(右派左派いずれの側にしろ「戦後日本」を批判する人々とて「すべてをなし」にしようなどとは思ってもみていない)。多かれ少なかれ、我々はそれを正当な「現在」だと思いたがっている。しかし、もしそこに死者の叫びが聞こえたら・・・。「私は日本兵に殺されました、だから日本人のあなたも死んでください」「私は日本のために死にました、でも、その日本は私のために死んではくれませんでした、だから日本人のあなたも死んでください」

 映画のラスト、「私は死んだ」の声の前に我々の知る世界は脆くも滅びたようである。一見、あの不気味な「思い出せ」の勝利である。しかし、そもそも「忘れてしまえ」と「思い出せ」とは矛盾したメッセージなのか? この映画で役所広司が一人「許し」を得たのは、自分の今の生活にとって何の意味も持ち得ない、名も知らぬ一人の死者の声に応えたことによってである。築き上げてきた自分にとっての「今」を否定してでも(「忘れてしまえ」)、死者の時間に立ち返る(「思い出せ」)こと、これは一つの示唆たり得るのではないか。救いのない映画であるが、全く救いがない訳ではない。

 余談。幽霊の動作はことごとく昨今の‘ジャパニーズ・ホラー’への悪意に満ちているとしか思えない反則的爆笑動作。相棒刑事の洗面器ズボーンッ!、には爆笑しました。生者に対して反逆をしかけた映画の死者に相応しい活躍ぶりではないでしょうか?(笑)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)おーい粗茶[*] 煽尼采 カズヒコ[*] 3819695[*] リア[*] ペペロンチーノ[*] ぽんしゅう[*] 太陽と戦慄

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