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[コメント] チャップリンの 黄金狂時代(1925/米)

洗礼儀式。(2002/12)
秦野さくら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







靴を食べるシーンには驚いた。「靴を食べる」という行為そのものよりも、キャラクタの象徴である「靴」を早々に消してしまったことに驚いた。これについては、映画評論家の淀川氏も同様に語っており、これを「キャラクタとの決別宣言」ではないかと推測している。チャップリンは、この映画をもって「チャップリン映画」を止める決意をしていたのではないか、と。実際、この映画の前後に、チャップリンには悩める時代があったらしい。

しかし私は、逆にこれはチャップリンの前向きな開き直りだと思えてならない。なぜなら、彼は靴を捨てたり無くしたりしたわけではなく、「食べて」しまったからである。半分は自分、残りの半分は映画のなかの相方によって。

この映画において、チャップリンは、自分が食べてしまった「靴」の存在を非常に大切に扱っている。例えば、小金を手に入れた彼は、町に着いても靴は買わない。好きな女性を迎える夜も片靴のまま。大金持ちになったあとの描写も足元は映さない(だから足元がどうなっているのか分からない)。早々に片靴の格好に戻る。この映画の彼にとって、「靴」とは、履いている片靴と血肉になったかつての靴のみなのだ。

繰り返しになるが、彼にとってこの「靴」は、ステッキや帽子と同様に、彼の映画のキャラクタの象徴。彼の映画そのものの象徴と言っても過言ではない。それを食すというのは、どういったことを意味するのだろうか? 短絡的ではあるがここで想起させられるのは、キリストの「血」と「肉」を食することで思想を分かち合う、キリスト教の洗礼儀式。チャップリンについて多くは知らないが、何らかの悩みを抱えていたチャップリンは、「チャップリン」の血肉を体内に取り込むことにより、自己の思いを再認識し、確実なものにしようとしたのではないだろうか。

この映画で、印象的な場面があった。「パンのダンス」の場面。このときのチャップリンの表情がとても印象的なのである。柔らかに微笑むこの男、これは、誰だろうか? 少なくとも、この映画のキャラクタ「チャップリン」ではない。これが、まさにチャップリンその人の顔なのだろうか? 以降の作品には、この男は登場しない。なぜなら、彼はその後、完璧な「チャップリン」像を作り上げてしまったから。まさにこの映画は、チャップリンにとってひとつの分岐点であったのかもしれない。

ところで、このように考えると、靴を分かち合って食べたあの男とは、一体誰を意味したのだろうか?

映画のキャラクタ?

チャップリン自身?

映画人?

世間?

分からない。どれとも考えられる。しかし、チャップリンは、この男と自らの血肉を分かち合い、シーソーゲームを繰り返しながらともに生きていくことを決意したようだ。(この男、どうやら自分の手を酷使するのをついに止めてしまったようだが。)これが本意なのか、不本意なのかは分からない。

(評価:★4)

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