[コメント] 生きものの記録(1955/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「生きもの」の「記録」
人間を「生きもの」と表現したり、それを「記録」すると言ったり、客観的な視座を強調しているように感じたので、そういう視点で観た。
主人公の老人は、極めて生物的に正しい。あちこちに自分の遺伝子をばら撒いて子を作り、危機を察知するやいなや、がむしゃらにそれを守ろうとする。そして彼は、“地球から脱出することで”それを達成した。
逆説的に、数年前に味わった痛みを学習せず、そこから逃げようともせず、平然と爆弾を抱えて生きる“人間”とは、生物的に確かにおかしな存在だ。
・・鑑賞後に私に残ったのは、そのような、精巧な箱庭を見たあとの“なるほど”感+αだけであった。私は完全な傍観者になってしまっていた。
この第三者的な視座は、むろん黒澤氏の意図したところだろう。しかし、もし、黒澤氏が、この作品を通じて、“抗えない存在”である水爆を庶民の手の届くものにしようとしたのなら、なぜ、第三者的な視座に観客を据え置く必要があったのだろうか。そして、なぜ、第三者の目線(志村の役どころ)を設定し老人とその家族を描いたのだろうか。人間を動かすのは“事実提示”では無いことを、黒澤氏が一番知っている筈なのに。この映画からは、黒澤氏の思想の方向性が見えない。
何度体験しても懲りない(または、体験すらしていない)私たち人間を本気で動かしたいのなら、“事実”以上の痛みが必要だ。私たちを主人公として据え置き、何度も何度も、その主人公に痛みを反芻させてやるしかない。
それが、映画人の使命であり特権なのだから。
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