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[コメント] 機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛(2006/日)

「好きでリメイクしたわけではないわ!」「なんだ図星じゃねえかよお、ねえちゃんよおおおおおお!」
ペンクロフ

新訳された映画版Ζガンダムを全て観終えた。今さらながら当たり前のことを言えば、これは2006年の一般的観客にとっては単に「わけの判らない映画」でしかない。お話は全然判らない。20年前にΖガンダムを観ていた我々にとってさえ、ゴチャゴチャしててよく判らない。だから、映画としてはΖ三部作はほぼ最低といっていい。

今回Ζがリメイクされた経緯にはいろいろな事情があったらしく、慌ててガチャガチャやってなんとか形にはなったものの、初見の観客には到底理解できない奇形の映画が3本できただけだった。破れかぶれのこの映画、ガンオタから見込める興行収入さえ確保すればあとは野となれ山となれ、後世に残すような作品でもないからどんな批評も富野由悠季にとっては痛くも痒くもなかろう。

では20年前に好きでΖを観ていたオレにとってこの映画がクソ映画かというとそんなことはなく、いやクソ映画なのは明らかにクソ映画なんだがそれはともかく、正直言って非常に楽しんだと言わねばならない。その楽しみと喜びは世間には通用しない後ろ暗いもので、むしろ「愉しみ」「悦び」とでも表記した方が的確かもしれぬ類のものだ。

外国映画を観ていると、外国語による洒落やスラング、隠語を含んだギャグに外国人の観客だけが笑っていることがある。今回のΖにおけるオレの立場は、あの外国人たちと似ている。原典のテレビシリーズを知っている我々からすると、富野由悠季による構成上の取捨選択からしてすでにギャグなのだ。あの話は切ったのにこのエピソード入れちゃうのかププ、そんなことの連続である。さらに新作カットと再アフレコによる改変部分も、ほとんどの場合ギャグになっていた。今回特に秀逸だったのがジオンくさいスーツの件、ヤザンの台詞全部、ケーキを食ってる場面全部などである。素人さんは呆然とし、我々は腹を抱える。

腹を抱えながらかすかに脳裏をかすめるのは、つくづく時間とは不思議なものだという思いだ。およそ20年前、Ζガンダムといえば時代の先っちょでビンビンにとんがっていたアニメーションだった。「部活もせずに毎週土曜の夕方は家に帰ってΖを観ているボクチャンチンは勝ち組のインテリゲンチャでトンガリキッズ」程度の自覚は確実にあった。ブラウン管の中で行なわれていることがいかに支離滅裂でも作画がいかにショボくても、グラサンでキメたクワトロ大尉の難しい台詞を必死で聞いてれば、ニュータイプは無理でも一人前のスペースノイドにはなれるだろうと思っていた。

時間という魔物の及ぼすどうしようもない劣化から、Ζガンダムは逃れられなかった。本当は、そんなことは『星を継ぐ者』の冒頭1分で判っていた。銀幕に残っていたのは珍妙に聞こえる富野台詞と、エゴイストどもが大暴れする収拾のつかない地獄絵図だけだ。かつて時代の先っちょでブイブイ言わせたオレたちのΖが、2006年においてはギャグになっていたのだ、それも相当面白いギャグに。

時代を超えて残るものは、文句なしに素晴らしい。人はそれを古典と呼ぶ。ファーストガンダムは、これからも古典であり続けるだろう。しかし時の流れに劣化されギャグに身を落としたこの不出来なΖガンダム、オレはこいつがどうしようもなく好きで好きでとても切り捨てられない。時代を超えられず時間にとり残されてしまったΖは、かえってあの頃の自分を鮮明に思い出させてもくれる。そりゃあ当然いい思い出ばかりではなくろくでもない記憶の方が多いのだが、それでもオレにとって今回の映画三部作は価値ある体験だった。Ζは過去から甦った青春の亡霊だ。20年の時を経て、オレははじめて「君は、刻(とき)の涙を見る」の本当の意味が判った気がした。そうだ、オレはクソ映画を3本観たのではなく、刻の涙を見たのだ。申し訳ありませんが、どうか今回はそういうことにさせてください。

(評価:★3)

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