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[コメント] 暗くなるまでこの恋を(1969/仏)

声(言葉)の映画。しかしそれは賛辞ではなく、要は演出が声(言葉)に止まっているのが残念だったということ。
ナム太郎

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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冒頭の多重音声も印象的な本作は、主役2人を中心にその心情がありとあらゆる場面で声(言葉)として説明される。が無残にも割れてしまうレコード同様、それらはことごとく単なる声(言葉)に止まり観客はおろか主役同士のの心にも届かない。

要は行動としての見せ方が不足していたのだと思う。それまでのトリュフォー作品とは違い大きな予算や大スターの共演という背景もあったのだろうが、冒頭から妙に大作然とした雰囲気が漂いワンカットのテンポが遅い。だからストーリー展開が遅く感じられサスペンスとしての緊迫感が皆無である。

例えば夫が妻に会社と個人のお金の引き落としを自由にできるようにするという映画の展開的にも重要な場面。ここでは事前に銀行員が妻らしき女性が見知らぬ男から暴行されているのを見ていて引き落としは個人名義のものだけにと忠告をする。しかし夫はそれを聞き入れず会社のお金も引き落とせるように手続きをしてしまうわけだが、ここでも夫や妻や銀行員の行動を元とする演出が施されれば、もっとサスペンスフルな効果が得られたはずである。がそんなことは全く無視されて結果的に挿入されるショットは夫の口から放たれる「両方で」という声(言葉)だけである。これではやはりつまらない。

また私立探偵への共同依頼人である本来妻となるはずであった女性の姉がその後一切姿を現さず、探偵からの「彼女も依頼人であることを忘れずに」という声(言葉)だけでその存在感が示されただけというのも残念であった。こちらも使いようによっては私立探偵亡きあとのサスペンスの盛り上げ役として一役買ったのではないか等々、演出への不満を述べればキリがない。

不満といえば本作でのベルモンドも、何か妙なスター然とした余裕がありすぎて私には不満であった。また本作の唯一の見所と言っていいドヌーヴの美しさを感嘆の域にまで切り取れなかったクレルヴァルの撮影もトリュフォー映画らしからぬ凡庸なものであった。

そんな観客の不満はどこへやら、物語の最終到着点は単なるメロドラマである。その辺がまたトリュフォーらしいではないかと言われればそれはそれで納得してしまいそうにもなるのだが、ならば最初から中途半端なサスペンス演出など施さなければよいわけで、私にはやはり不満であった。

そんなトリュフォーは肝心の行動的な演出を省いてでもどうやらルノワール作品からの引用を各所で行っていたらしいのだが(言うまでもなく本作は、冒頭でルノワールに捧げられた作品であることが示される)勉強不足の凡夫にはせいぜいラストの『大いなる幻影』程度しか想起できず、そういった面での楽しみも得られなかった。トリュフォーにそれを責めるのはお門違いだというのはわかっていながらも、そんな文句のひとつでさえも吐いておかないと気が収まらない、本作は彼の映画を愛するがゆえに言わざるを得ない本当に彼らしくない残念な作品であった。

(評価:★2)

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