コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] アバター(2009/米)

ネイティブアメリカンと出会ったアメリカ人は、こんな気持ちだったのだろうか。素敵な旅をありがとう、キャメロン。そして映画は変わる。
空イグアナ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







江戸川乱歩の『陰獣』じゃないんだが、ときどき思うことがある。作家による物語のつくりかたというのには大きく二種類あって、一つは、紙芝居型というのか、このシーンの後に、このシーンが来て、主人公がこんな行動をとったと思ったら、次にはこんなハプニングが起こって、次はこうなったら面白いなあ、といった感じに、場面を次々とつないで物語を紡いでいくもの。もう一つは箱庭型というのか、キャラクター、舞台、登場する組織など、世界設定をつくることに力を注ぐものである。そして間違いなく森博嗣は、後者の要素を大いに持ち合わせているのだ(前者の要素が皆無ではないし、むしろこちらも大いにある)。―――などということを、『スカイ・クロラ』の感想に書こうか、どうか、などと考えているうちに、書かないままに時間ばかりが過ぎ、『アバター』が公開されたのであった。

こういう話も思い出した。心理療法の一つに、箱庭療法というものがある。日本で心理学を広めるのに貢献した河合隼雄が提唱した方法で、その名の通り、人形や木、建物の模型をたくさん用意しておき、それで箱庭をつくって患者の心理を読みとるものなのだそうだ。箱庭をつくって何がわかるんだろう、とも思ったが、解説書を読んでみると、大切なのは、カウンセラーと二人きりで行うこと、そして何よりも、患者が表現する「物語」が大切なのだ、ということであった。なるほど、それでわかった気がする。カウンセリングと言うと、カウンセラーにあれこれ話したりするものであるが、言葉だけでなく、模型を使うことで、より表現しやすくしているのだろう。

河合隼雄は言う。人は自分という物語をつくるものなのだと。

さて、私にとっては、3D初体験である。そしてやはり話題のIMAXというやつで観たい、と思っていたのだが、劇場は超満員。数日前から予約で満席になってしまう始末である。こりゃ、もう少し話題が下火になるのを待つか、と思って、ようやく観ました。

本編が始まる前、『アリス・イン・ワンダーランド』の予告、それも、会社のロゴマークが映された時点から、すでに観客席から歓声が聞こえてきました。もちろん『アバター』本編も素晴らしい。特に印象的だったのは、前半、追われた主人公が、崖から水中へダイブするシーン。あそこは本当に高所に立ったかのような臨場感があった。そして「こいつは間違いなく、映画は変わる。」そう確信したのであります。

同じ物語でも、映画には、映画の、漫画には漫画の、舞台劇には舞台劇の、文法というものがあります。媒体が変われば、表現も変わる。ケータイ小説を、「あんなものは小説ではない。」と批判する声もありますが、ケータイ小説にはケータイ小説の文法があるのだと思います。ただし、今のケータイ小説が、精錬された文法を持っているかどうかは別ですが。

それはともかく、映画は3Dになることで、紙芝居から、模型あるいは箱庭へと近づいたことになります。もちろん、絵には絵のよさがあるわけであって、模型が絵よりも優れているとは限りませんが、映画の演出方法は今後、間違いなく変わっていくでしょう。

確かに目が疲れた。奥行きのある画面で、字幕は一番手前に表示されるものだから、俳優の演技を見ながら、目は、その手前にある字幕にもピントを合わせなければならない。それから、ときどき、背景がピンボケになるのも気になった。自分の目が、手前にある物体に焦点を合わせているからぼやけているのではなく、どれだけ目を凝らしてもぼけているのだから、かえって「ああ、こりゃ、スクリーンに映されたつくりものなんだ。」と現実に引き戻されてしまう。背景をピンボケにして、手前にある重要物を際立たせるのは、撮影の基礎だ。作り手として、余計なところに目をやってほしくない、と思うのも、当然の心理だろう。しかし、ここは思い切って、背景までピントの合ったきれいな画像にしてしまってもよかったのではないか。

逆に言えば、これから、どころか、もうすでに、二次元だったときの論理は、通用しなくなっているということだ。

ストーリーはというと、あまり新鮮味はない。というより、キャメロンの過去の作品とも重なるところが多い。あるワイドショーでは、「身分を超えた愛というところが、『タイタニック』と共通する。」と報じていたのを見たが(やっぱり「あの『タイタニック』の監督」と紹介されることが多かったからね)、僕はむしろ、『ランボー2』(脚本初稿のみで、完成した映画は、キャメロンの意図とはずいぶん違うところもあるみたいですが)や『エイリアン2』を思い出しました。任務を負った主人公が、敵地に潜入。そこでの一人の女性(少女)との出会いが、主人公を変える……。クライマックスではパワードスーツが登場するし、後半は上司と敵対することも共通しています。第一作目ではジャングルでの戦闘の特殊訓練を受けた兵士だったランボーは、「2」では「ドイツ人とインディアンのハーフ」と紹介され、「ジャングルが故郷」と言われる野生児にまでなってるし。それから本編ではあまり描かれなかったけど、主人公は車椅子の身になって、生きる意欲を失っていたのかもしれない。そうすると、社会になじめない主人公が任務を負い……というところまで共通していることになる。

ターミネーター2』が技術革新をもたらしただけでなく、内容も精錬された傑作で、『タイタニック』が既存の技術に大金をかけて、平凡なパニックとラブストーリーを描いた映画なら、『アバター』はストーリーは平凡だが、技術革新をもたらした映画、というところか。

ただ、僕は、ストーリーは平凡でも、キャメロンに喝采を送りたい。それは2時間以上の時間を退屈しなかったというだけではなく、いい旅をさせてもらった、という満足感があるからだ。

惑星の生態系や、ナヴィ族の生活が面白い。キャラクターや世界設定ばかりをつくっても、起承転結を持たせなければ物語にならないと言えばそうだが、主人公がジャングルの中に入っていき、ナヴィ族と交流を深めていく様子は、どこかの見知らぬ土地に入っていくドキュメンタリーみたいだ(もちろん、ドキュメンタリーにはありえないアングルとかもあるわけだけど)。斬新なストーリーなどなくても、その生活を見ているだけで、冒険している気分で楽しいではないか。

僕にとっては生まれる前のことだけど、60〜70年代のアメリカではカウンターカルチャーが起こり、若者は新しい文化を求めて、あらゆる民族の文化、宗教を取り入れようとした。ヒッピーがあふれ、ネイティブアメリカンの生活を紹介したドキュメンタリー本がベストセラーになったりした。現代の文明から離れて、自然とともに生きようという試みは、こうしてナヴィ族と生活することと似ているのかもしれない。

前半の、「こうして主人公は、ナヴィ族と仲良くなりました」で終わっても、充分よかったくらいだ。むしろ、前半どこか崇高なものを見せられた気がしたのが、クライマックスの「VSパワードスーツ戦」がいかにもB級SFっぽくて、安っぽく思えてしまった。(それにしても、最後は、是非、あの割れた防弾ガラスの小さな穴へと矢を射て見事命中!となってほしかった。長官自らカバーをはずしちゃったよ)

恐るべきは、映画が終わるころ、他の観客のすすり泣く声が聞こえてきたこと。多くの観客が、劇中のナヴィ族に感情移入したのです。

ナヴィ族のデザインですが、ちょっとグロいと取れないこともない。少なくとも、一目見てかわいいとか、かっこいいとか思えるものではない。僕は怪獣が好きですけど、ポスターや予告でナヴィ族の姿を見ても、ゴジラやガメラの新怪獣を見たときみたいに、「おお、かっこいい!」と(もちろん、かわいい、とか、美しい、とかいうようにも)魅了されませんでした。しかし、映画を見ると魅了されてしまいました。スピルバーグが、シワクチャ顔にギョロリと不釣り合いに大きな目玉で結構グロい『ET』を、かわいいと人気者にしたのと同様、キャメロンも、ナヴィ族に感情移入させてくれたのです。

架空の種族に命を吹き込み、その生活を疑似体験させてくれたキャメロン。そして自分が作った物語を表現するために、技術を進歩させてしまったキャメロン。彼はまさに作家だったといえるでしょう。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)Orpheus けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。