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[コメント] 桐島、部活やめるってよ(2012/日)

この映画はホラー映画のパロディ映画なのかもしれない。だから、「ロメロだよ! そんぐらい見とけよ!」と叫ぶ。 2013年11月27日DVD鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







もはや想像の産物ともいえる「桐島」をめぐっての群像劇――そこから描き出されるのは一体どんな群像青春劇かと思ったが、何だかこれと言って目新しいことも無く、ただどこかで見たことがあるような気のする世界だった。それが十分に描けているという意味では、それはそれでスゴイことなのだと思う。だけど、そんなことをわざわざ映画で見せられなくても、そもそも「知っている」という感覚を一方で覚える。映画で見せるなら、もっと他にありえたんじゃないか、という感覚が見終わってずっとつきまとう。そんな映画だった。

そういう意味では、単純に青春映画として見た場合は、☆3という気持ちが強く残る。

この映画で描かれる、全能の存在としての「桐島」を介しての様々な人間模様は、なぜか青春映画にありがちな焦燥感ではなく、疾走感もなく、ただただ諦念だけが渦巻いている。「桐島」との落差に悩み、「才能」に悩む節はあるものの、それは確かに焦燥感や憤りに繋がっているものの、どこかさらりと描かれて、そのままである。一体これは何なのか。

結局のところ、この映画の「青春映画」や「学校(についての)映画」として見た時に感じる、物足りなさと目新しさの無さを考えるにつけ、この映画は実は、ホラー映画賛歌なのではないかと思うようになった。そのことの手掛かりは、劇中で制作中であるゾンビ映画『生徒会・オブ・デッド』だ。この作品が、この映画へのメタ的な視点を生み出している。

「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」(1時間27分)

ゾンビ映画のパターンから全く外れていない、この正統派のセリフがクライマックスで吐かれる。だけど、これは映画なのだ。現実においては、「俺たちの世界=学校」で戦う(=氾濫するゾンビ)は、簡単に自分よりも強大な力に捻り潰される。「戦おう」というアジテーションは、空しく響き渡る。映画の中では雄弁に希望は語られるが、現実にはそれほど希望は無い。ゾンビ映画的な、「絶望的な希望」さえないのだ。

だから、この映画で、焦燥よりも諦念が溢れているのは、映画が描く希望と現実との落差についての物語だからなのかもしれない。つまり、「桐島」というフィクションと登場人物個々の物語の既視感は、同時に、「映画」というフィクションと我々の生活世界との距離と対応している。我々は、フィクションとしての映画に希望を仮託して、現実を生き抜く。しかし、時として、フィクションは、現実を生き抜く術ではなく、現実をより現実らしく映し出す鏡でもある。理想としてのフィクションは、否応なく現実との距離=「落差」を示す。そして、それを乗り越えることができるかどうかを推し量るときに、まさに「才能」という現実が、突き刺さる。

そういう意味では、ラストで「フィクション」としてゾンビが人間を食いちぎりながら、結局はゾンビたちが打倒されるシーンは、そのまま「桐島」とキャラクターたちの関係であり、「映画」と我々の関係であり、そしてまた、「我々の理想」と我々の関係でもある。それらは、全て形は違えど、「我々」と「物語=フィクション」との関係についての物語である。

だから、劇中で最も生き生きと喋られる台詞――「昨日『スクリーム3』最後まで見ちゃった。やっぱさ、あれ、『2』の方が面白いよね」(50分)が象徴しているように、この映画は「ホラー映画のメタ映画」と見るべきだろう。つまり、「青春映画」の形を取った「ホラー映画のパロディ映画」である。

しかし、この映画が特殊なのは、むしろそのことによって逆説的に「青春映画」を逆照射している点である。『スクリーム』は、「ホラー映画」でありつつ、同時に「ホラー映画を語るメタ映画」でもあった。王道のホラーのセオリーを踏襲しつつ、同時に裏切る映画である。『桐島、部活やめるってよ』の場合は、王道のホラー映画のパターンを踏襲しながら、そのことを通じて「フィクション」と「現実」との落差を描くことを通じ、「我々」と「物語=フィクション」の関係を描こうとしている。ギークの妄想と、学校の現実との落差は、そのまま「桐島」と「我々」の落差でもある。それらは、表面的な違いはあっても、構造的には同じである。

ラスト――東出昌大は、カメラを向けられることを拒む。「俺はいいよ…」。

その時、(ホラー)映画を撮るカメラは、それを眺める観客に突き刺さる。バカにし続けてきたギークが撮った映画が、「リア充」の胸に突き刺さることもありえるのだ。その可能性が示される時、初めて王道のセリフが意味を持つ。「戦おう、ここが俺たちの世界だ。」

――もっとも、これ自体既にフィクションなのだが。なぜなら、ラストのあの件で、彼のカメラは壊れていて撮影できていなかったのだから。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)煽尼采 3819695[*] けにろん[*]

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