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[コメント] 勝手にしやがれ(1959/仏)

…レビュー書いてる内に評価がどんどん上がっていきました。こんな事があるから映画批評は楽しいもんです。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 本作を観たのは名画座で『気狂いピエロ』の併映として。

 ここで私は大きな間違いをしでかした。

 時間の問題で『気狂いピエロ』の方を先に観てしまった。

 いい加減に脳がぐちゃぐちゃになった状態で本作を拝見…面白いと思えなかった。映画史などで絶賛されていたため、かなり期待していたんだが、順番が悪すぎた。

 そう言うわけで、あんまり良い思い出ではないのだが、改めて考えてみたり、後で本作に関する記事などを漁ってみると、色々と面白い事がこの映画から分かってくる。

 実際本作から映画は映画として独自の表現形式を取るようになったのだと思う。元々映画は舞台劇を元として作られ始めたので、どうしても演劇の形式に引きずられる傾向があった。緩急のついた脚本、演技者の巧さ、連続性のあるストーリー展開など。今でも勿論それは基本としてちゃんと残っている。

 ただ一方で、これを映画独自の表現にしようとする試みは、それこそ黎明期の頃から行われてきた。

 舞台劇と映画の違いはいくつも挙げられるが、その一つとして、カメラで撮られた映画は、フィルムの使い方によって時間の連続を無視できると言う点がある。例えば結末部分を冒頭に持ってきて、それを補足説明する形でストーリーを展開させるとか、一瞬の時間を引き延ばして長々と見せるとか(奇しくもその最たる作品でヒッチコックの『サイコ(1960)は同じ年に公開されている)。現実時間に即していない映画はもっと自由度が高く作ることが出来る。本作はコマ送りや早回し、逆に時間の引き延ばしと言った映画独特の技法を自由自在に駆使した作品で、それまでほとんど無かった表現様式を作り上げてくれた。これまで良しとされていた技法を一旦白紙にして改めて映画を問うたゴダール監督の勇気には感服する。

 又、キャラクターに連続性を求める必要はない。と言う事をそのまま出してしまった作品でもある。要するに、人を殺したら当然その罪の意識に苛まれるか、あるいはそれを覆い隠してしまって素知らぬ振りをする。と言う具合に持っていくのが当たり前なのだが、ここにはそれがない。ベルモンド演じるミシェルは人を殺そうがなんだろうが、それを一向に気にしていない。せいぜいやっかい事が増えたと言う程度の認識でしかない。ラストシーンの「最低だ」ってのは、そのままミシェルの思いだろう。単に自分に素直に生きているだけで、殺されてしまうなんて、なんて最低なのか。そんな思いとして私は捉えた。又、セバーグ演じるパトリシアの性格の豹変も凄い。あれだけ濃厚に(?)愛し合っていながら、次の瞬間にはあっさりとミシェルを警察に売るような真似をする。ここにも一切の罪悪感や葛藤は見られない。

 この現実味のなさこそが本作の最大の魅力となっているのは間違いなく、見事にそれまでの映画の定式を壊して作ってくれていた。映画の定式を壊すことによっても映画は作れる。否、映画でしか作れない作品が出来上がると言うことを映画界に認識させたと言うことで、記念碑的作品と呼ばれるようになった。いかに自然に作るのではなく、いかに不自然に作るか。これも又、映画の一つの魅力だ。

 ちなみにヌーヴェル・ヴァーグというのはフランスの「カイエ・デ・シネマ」の映画評論家から始まった運動で、代表的な論客がトリュフォー、シャブロル、そしてこのゴダールだったのだが、本作は元々トリュフォーが原案を出し(何でも新聞の三面記事を見ていてひらめいたそうだ)、製作監修をシャブロルが務めるという、まさにヌーヴェル・ヴァーグを代表する一本として良い作品へと仕上がった。

(評価:★4)

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