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[コメント] ガス人間第一号(1960/日)

このラストは本当に悲惨なのか?そうは思いたくないなあ。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 監督本多猪四郎&特技監督円谷英二の黄金コンビが放ったSF大作。これは一連の「変身人間シリーズ」と呼ばれる作品の内の一作だが、その中でも最高作品の呼び声が高い。その通りで、これ程の完成度を持つ作品がこの時代に作られたと言うことは特筆に値するだろう。

 古来SFには超人間に関する小説が数多く書かれていた。ヴォークトの「スラン」やハインラインの「メトセラの子ら」などがその代表。日本でも平井和正の『ウルフガイ』とか、眉村卓のジュブナイルの中に多くそれが見られる(これ書いてたらレポートが出来そうだ)。「人間の形をしていて、どこかで人間を凌駕する特別な生物」と言うのはイメージをかき立てられるのだろう。ところが小説ではそう言う特別な力を彼らはむしろ嫌悪しているように描かれることの方が多い。その力を持っているため、人間社会にとけ込むことが出来ず、何とか普通の生活を送ることが成功したかのように見えても、誰かが彼の力を狙ってきて、そして又逃げ回らねばならなくなる。いずれ悲しい存在である(ハリウッドの映画は不思議とこの手の作品は多いが、日本の映画ではあまり見られないのはお国柄なのだろうか?)。

 ここに登場するガス人間の水野は、ある種のスーパーマンで、物理的法則を無視できる。どのような場所でも隙間さえあれば入っていけるし、人を殺すのもお手の物。しかも先ず殺されることはない。と言う具合に。しかも彼をガス人間に変えてしまった博士を殺すことによって自分に次ぐガス人間は誕生しなくなった。最早仲間は生まれない。彼こそが唯一無二の超人間となったのだ。

 殺されることも、傷つけられることもないのだから、彼にはなんでもできる。モラルに縛られる必要は全くない。だが、彼が表舞台に出るのはずいぶんと後になってからのことである。

 これは彼の孤独。その点を考える必要があるのではないか。人に紛れて生活は出来るが、回り中の人間と彼は根本的に違うのである。それを自覚するが故に、彼は苦悩する。人としての生活を続けていきたい。だが、人を見下す自分を止めることが出来ない。

 そんな彼が出会ったのが藤千代だった。日本舞踊の家元として、素晴らしい素質を持っているのに回り中の人は彼女から離れていく。だが彼女の孤高な魂は屈辱的に人に頭を下げさせることが出来ない。彼女も又、特別な人間だったのだ。

 そんな彼女に自分と同じ魂を発見した水野が、彼女に惹かれたのは、ある意味自然なこと。そして彼女に認められるために彼女のパトロンとなった。彼の力をもってすれば、どれほどの金もたやすく手に入れることが出来るのだから。ここで初めて彼は人間として、ではなく、彼女のためにガス人間として生きる道を選んだ。

 だからこそ、藤千代が捕まえられたとき、彼は堂々と名乗りを上げる。水野はもう孤独ではなかった。同じ魂を有する(と彼が信じる)藤千代がいるのだから。人は人を超える存在を認められない。それを一番知っていたはずの水野が敢えて社会に顔を出すのは、藤千代に対する想いがどれ程深かったかを瞥見させて、見事なストーリー運びを感じさせる。勿論これによって更に藤千代は迷惑を被ることになるが、水野にとってはそれは構わなかっただろう。彼にとってこの世界は二人だけのものだったのだから。藤千代は好きなだけ舞っていればいい。彼女を自分は守ってやる。だからこそ、最後の彼女の発表会では、彼は一人で彼女を観ていることに、何の問題も感じていない。

 二人の世界はそれで良かっただろう。だが、社会はそれを許さない。一応の主人公岡本警部補が語るように、彼の存在そのものが社会に与えた不安は計り知れない。何せ殺人者が大手を振って社会に出ているのだ。更に全てを彼の責任にしてしまえば、どのような犯罪もまかり通るという理解が普通の人間の中に芽生えてしまう。これこそが超人間を扱った作品の醍醐味とも言えるが、それをしっかり撮った構成は見事。

 ここまでは水野の立場で考えたレビューだが、この作品は決してそれで終わるのではない。水野同様、魅力がある人物が登場するのである。それが藤千代だ。彼女の美しさ、そして鬼気迫る彼女の舞の凄まじさがこの映画の素晴らしさとなっているのは間違いがない。

 彼女が最初の舞で被っていたのは般若の面。なんと言っても般若は女性の情念そのものを示す。誰一人おらず、日本舞踊の家元としては屈辱的な立場に置かれている藤千代にとっては、その内面がそこに込められているようだった。そしてそこから現れる現世の人間の顔。これが又実に美しく撮られている。見事な対比だった。心の劫火に焼かれ、鬼となった女性の顔を内面に持つ美女。これを僅かな時間に演出したのは凄い。更に、無罪であることが分かっているのに、女性専用の牢に入れられた彼女の孤高な姿。水野という男に知り合ったこと、彼の気持ちを知ってしまった事。全てを沈黙の内に閉じこめ、毅然として座り続ける。彼女も又、同じ牢に入れられた女性達と同じく叫びたかっただろう。水野により解放された時、逃げたかっただろう。だが、それら全てを内に閉じこめる。この時、水野と自分の関係のラストシーンを既に予見していたのではないか?そして最後、誰も観ていない舞台の中央で独り「情鬼」を舞う時の変化。一人の女がどのように鬼女に変わっていくのか。その過程を克明に魅せている。冒頭で“般若→女”でその内面を窺わせた彼女が今度は“女→般若”を演じることで、見事に対比を作り上げていた。舞台の上で鬼女を演じ、自分の顔に戻って水野に抱かれる時、一筋の涙を見せながらライターを取り出すシーン。鳥肌が立つほどに素晴らしかった。

 劫火に包まれる結婚式を挙げた水野は満足だったのだろうか?せめてこの悲しい物語の結末は、人間社会に受け入れられなくなってしまった藤千代と水野の二人は満足して逝ったと思いたい。

 一応蛇足ながら、この後、『フランケンシュタイン対ガス人間』が作られなかったことを東宝スタッフに対して感謝したい(『フランケンシュタイン対地底怪獣』参照)。

(評価:★5)

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