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[コメント] 天気の子(2019/日)

凄い。濃縮された新海汁を世間が受け入れはじめてる。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 本作は実に楽しい。何が面白いと言ったって、これだけツッコミが次々入る作品は大変珍しい。映画観てる間、私の脳はフル回転。秒でツッコミが入る作品なんて、マイケル・ベイの『トランスフォーマー』以来だ。だから正確には「面白い」ではなく「楽しい」と言うべき。

 ほぼ秒でツッコミが入るため、いちいち書いてるといくらでも書けてしまうのだが、とりあえず何点か言わせてもらおう。

 第1点。登場人物が少なすぎる。

 最初に出てきた船が帆高と須賀の二人以外ほとんど人の描写がなく、幽霊船なんじゃないかと思うほど。くらい人が少なかったが、それはそのまま続く。東京、しかも最も人が多いはずの新宿にほとんど人がいない。思わせぶりな台詞を使うチラ見した人間が必ず後で関わってくるのだが、新宿という街の中でどんだけの確率で再会できるのかとか、それこそ一瞬しか顔見てない行きずりの人間の顔を細部まで思い出せるとかの記憶力と偶然の再会があまりに多すぎる。陽菜の弟凪に至っては、バスの中で小学生同士で会話してたのを聞いただけで本人を特定できてる。帆高には絶対音感でも備わってるのか?

 第2点。世界の狭さ。

 これこそが新海監督の売りなのだが、これが例えば田舎町とか架空の街、あるいは東京でも極めて狭い空間だけの話だったら成立するだろう。前に新宿を舞台にした作品として言の葉の庭があったが、あの作品の場合は新宿御苑という限られた空間だから成り立ってた。しかし本作は新宿のかなり広範囲と池袋まで含める相当な広さが舞台である。けこれだけの広さでこんなに人が少ないのは無理がある。

 第3点。いわゆる「大人」の不在。

 これまでの新海作品にも共通する点だが、ここには分別持った大人は誰もいない。帆高の保護者であるはずの須賀たちもモラトリアム真っ最中で年齢を重ねても大人になりきれてないし、刑事達も単なる障害物でしかない。理性を持って帆高たちを諫める存在が全くないのだ。帆高の家族に至っては一人も登場してない。まるで子ども達だけで箱庭の中で人形遊びしてるかのようだ。きちんと大人の事情も描いていた君の名は。とは大きな違いだ。

 第4点。動機の不在。

 何故人を好きになるのか、何故そのような行為をするのか、そのバックボーンがあまりに薄すぎる。基本的に「俺がしたいから」という論理のみで話が展開するため、話が強引になりすぎるし、なにかまずいことが起これば走って逃げるだけ。『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』(1986)か?

 とりあえず特に意味はないはずだが、帆高が設定した目的に向かって走っていさえすれば話が展開する。

 そしてこの動機の不在はラストにまで影響する。帆高の家出はオチに関わる重要な伏線だと思ってたんだけど、最後に分かるのは、本当に単なる家出だった。なんら目的もないままあれだけの期間危険な新宿に留まる帆高のモチベーションが見えてこない。

 そして何の考えもなく陽菜を助ける選択をしたため、東京を水没させる。自分の大切な人を救うために他のすべての人たちを犠牲にする最悪の結果だった。

 新海監督はそれでいいと割り切ったんだろう。そしてそれは一般的には“不正解”だからこそ正しい作り方だったと思う。

 本作が新海監督らしいと言われるのは、実はこのツッコミ部分に当たる。

 新海作品の特徴は物語の大局を見ず、決して俯瞰しない。主人公の青年(!)が目で見える世界のみがすべての世界である。

 先に挙げた第1点は帆高視点ではこの世界で自分に関わる人間しか見えないので、当然登場人物は少なくなる。第2点の範囲の狭さも、第3点の大人の不在も帆高という青年一人だけの視点で描こうとしてるのだ。それは他のすべてのツッコミ部分に関わってくる。端から見れば馬鹿みたいな動機も帆高という子どもの内面では大切なものである。原因なんてどうでも良いのだ。帆高にとって、家にいたくないという動機こそがすべてであって構わないのだ。

 帆高という青年の内面世界が世界に重なって展開してるのが本作、いや新海誠監督の作品の特徴なんだから。

 この自意識のみで作られた世界を「気持ち悪い」と一言で断じてしまっても良い。一般的な見方であればそうなるだろうし、私自身も実際に「気持ち悪い」と思うし、「もっと大人になれよ」と言いたくもなる。

 だが、この「気持ち悪さ」こそがこの監督の最大の強みなのだ。

 筆者の友人たちで新海誠作品をとても好きな人たちが結構いるんだが、彼らは新海誠作品を「半径5メートルの範囲しか描かない」とか「童貞を賛美してる」とか言われる。だけどそれは勝手に作られたものではなく、新海誠監督が敢えて意識的にその方向性定めて作ったものだ。

 「童貞であることの何が悪いのだ?むしろ俺は童貞に戻りたい」というメッセージを込めることで監督のオリジナリティが高まる。

 本来物語は少年が大人になるビルドゥングスロマンの方向性を持つ。しかし新海監督はそれを敢えて描かない。社会は自分を大人にしようとしているけど、俺は敢えてガキの理論で世界に立ち向かってみせる!

 この論理で突っ走ることができるのが新海誠監督の最大の強みなのだ。

 だから最後の帆高の決断はああならざるを得ない。大人になって世界を助けるなんて、新海誠ではあり得ない理屈なのだ。

 君の名は。に関して言えば、この辺のバランスも良く、大人の理論というのを一度飲み込んだ上で、「やっぱり俺はガキで良い」と開き直ってるが、本作はそもそも大人が不在のために大人の理論を飲み込まず、最初から最後までガキの論理だけで突っ走ってる。

 だからより純粋に新海誠っぽさがあるし、「俺たちのところに帰ってきた」と言えるような物語になっている。友人の言葉を借りれば「新海汁に満ちた作品」と言えるだろう。

 これも君の名は。という先行作品があるため、これだけ原液に近い新海汁も一般に受け入れられてるのが面白い。

 これはつまり、新海誠という存在にやっと世間が追いついたという事実を意味するのかもしれない。

 一つだけ看過できないツッコミ。

 陽菜の能力はピンポイントで晴れを作ることなんだが、太陽が出ていても頭の上は雲になる訳だから、夕方近くの斜めに日が差してる場合、狐の嫁入り状態になるはずだが、そこもなんの説明もなかった。君の名は。の彗星の軌道と同じ根本的ツッコミで、これだけは擁護しようがない。

(評価:★3)

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