[コメント] 万引き家族(2018/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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様々な角度から、一貫して家族を描き続けている是枝監督。今度は、監督の出世作である『誰も知らない』に近い、日本の中で可視化されにくい貧困家庭をテーマに取った。
ただ、この作品の場合、『誰も知らない』から10年以上も経過した事もあり、同じやるせない貧困家庭を描きつつも、微妙にテーマを変えている。
『誰も知らない』の場合、救われることのない閉塞感の中、あえぐだけの子ども達を描くことで、家族のあり方を問いかけた。
主人公の明は、ただ血がつながっている長男と言うだけで、自分の責任を果たそうとする。そこには「家族は家長が面倒を看なければならない」という義務感だけしか存在せず、愛情もほぼ感じさせられない。そのために極めてドライな描写が特徴だった。
対して本作の場合、アプローチが全く異なる。ここに登場する家族は全員血のつながりを持たない。ただ治の愛情によってのみつながれる疑似家族である。その分良くも悪くも大変ウェットな話になった。
家長の治はこの疑似家族を家族として存在させる方法についてはっきり自覚している。
家長として自分がやらねばならないことは、家族みんなを愛することだけ。それが唯一家族をつなぎ止める方法と信じて疑わないからである。息子の祥太に万引きの方法を教えたのも、祥太を儲けの道具にしようとしてではなく、自分が教えることが出来るのはそれしかなかったからに他ならない。ゆりをさらったのも、愛情を受けずに放置されている子を見ていられなかったから、この子に愛をあげたかったという理由からで、これは純粋な善意のみによる行いである。
それだけ治は家族を愛している。彼にとって万引きとか、金儲けなどは意識することではなかったし、働く事自体も嫌いでもないので、怪我をするまではちゃんと働いていたし、家族が食べるための総菜などはちゃんと金を出して買ってる。
治がしたかったことは、家族を作りたい。家族に愛を与えたいというそれだけの思いだった。しかし、その愛のあり方は血のつながった家族を単位とする社会の構図にははまれない。
治の思いはともかくとして、他の家族は割と冷静に見ている。おばあちゃんの初枝は家族には黙ってお金を貯め込んでるし、高校生である事を隠して風俗で働く亜樹は、本物の家族に対する当てつけでこの家族ごっこに参加してる。そして祥太はこの不自然な関係をどこかで断ち切らねばならないと思い続けている。
特に祥太の思いはこの物語のもう一つのテーマでもあろう。どれほど愛情によって家族が作られようとも、社会に認められない家族は、いつか必ず崩壊することを自覚している。
治の妻信代もどちらかというと祥太と同じ立ち位置にいるが、それ以上に治の愛を信じているために積極的にはそれを口に出していない。
実際、危ういバランスの上に立っていたこの家族は、初枝の死によってあっという間に瓦解してしまう。祥太が敢えて万引きで捕まってみせたのは、この疑似家族はもう終わるのだという宣言に他ならないだろう。
結果として、愛情によってのみつなぎ止められる疑似家族というのは、これだけもろいものだという事を示すことになるのだが、一方では、愛さえあればこんな家族も作れるんだというメッセージ性もそこにはあるだろう。
『誰も知らない』と本作の対比によって見られるのは、社会的に認められた家族という単位で愛情が根底にあるならば、それは最高であると言う実に単純な事実なのだから。
ところで本作はカンヌで21年ぶりの日本映画のパルム・ドールを得たが、それから大バッシングが始まった。なんでも万引きを肯定的に捉えた映画は恥だとか言ってるようだが、この作品をちゃんと観れば、万引きは犯罪であり、やってはいけないとはっきり言ってるのは分かるだろうに。なんでそれが分からない?
…タイトルが悪いんだろうな。批判する人は映画自体を見ないだろうし。でもそのためにヒットしたのだから善し悪しか。
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