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[コメント] 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語(2013/日)

あるいはこのタイトルは『[新編]上書きの物語』としても良かった。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 まず、きっちり終わっていたテレビ版だが、釈然としなかった部分が存在した。それはラストシーン。最後に戦いに赴くほむらの背中から禍々しい黒い羽根が生えていたことだった。あれは何を意味しているのか、ネットでも色々意見は出ていたようだが、多分あれは意味はなく、含みを持たせた終わり方をさせたかっただけだろうと言うのが大方の意見だった。

 そしてこの部分、ひょっとしてそれが劇場版で明らかになるのではないか。とも言われていたし、私自身も、本作の一番の注目部分はここだろうと思っていた。

 そして、確かにその謎は解明された。思いもしなかった形で。

 物語開始後の前半戦部分も結構意外だった。テレビ版で死んだはずのキャラ、消えてしまったキャラも登場してるし、戦う相手ももテレビ版で出てきた魔女や魔人ではなく、ナイトメアという別の存在。更に言えばテレビ版の魔女までが味方となって登場してるし、テレビ版でそのメフィストフェレスぶりを遺憾なく発揮したキュウべえが単なるマスコットになってる。

 話の中心となるのがまどかではなくほむらの方に移ってるのは多少違和感あり。テレビ版では謎めいた存在であったほむらが、ここでは単なる気の弱い妹のような存在として描かれており、その正体を知ってる身としては、その描写にちょっと首を傾げてしまう。

 ただ、最初は戸惑うものの、ひょっとしてこれはパラレルワールドで、全く新しい物語として作ったのか?違和感はあるが、それならそれで受け入れられる。原色たっぷりの不条理描写も劇場の画面の大きさだととても映える。ドラッグ系作品と考えれば、それはそれでありか。

 これが変化するのが中盤に入ってから。ここは一つの町しかない世界で、この世界に閉じこめられていること、ほむらだけはこの世界のおかしさに気がついていることが分かってくる。そこで謎を探る内にこの世界がどれだけ出鱈目に出来ているのか、そしてやはり本来はテレビ版の世界こそが本当の世界であることが分かってくる。この辺になってくると、単に気の弱いキャラと見えたほむらが、今度はテレビ版さながらの積極的な存在として登場してくる。そして彼女の積極的行動によってこの世界の謎が解明されることとなる。

 ではこの世界が何であるのかと言うと、これは魔女化一歩手前で精神凍結されたほむら自身の中の世界だった。テレビ版最終話で女神化したまどかが望んだのは魔女のいない世界。だがそれは魔法少女を作り、それが魔女化する際のエネルギーを利用していたインキュベイターの目論見とは真っ向対立する。そこでまどかの存在を知ったインキュベイターは、その存在を捕らえる事で自分たちでそれをコントロールしようと考え、ほむらを囮にする。魔女にすることは出来ないため、魔女になる一歩手前で精神凍結して、魔法少女が魔女化する時に現れる“まどか”と呼ばれる存在を捉えようとしたのだ。

 そして確かにテレビ版で、ほむらはキュウべえにまどかの存在の事を話してもいる。その失言をインキュベイターに利用されたことになる。

 テレビ版の最後の謎だったほむらの真っ黒な翼は、まさしく劇場版の直前、今まさに魔女になろうとしていたほむらの姿だったことなのだろう。このあたりバタバタっと謎解きがされていくのは心地良い。違和感が次々と解消され、物語が腑に落ちたものとなっていく。胸の内のもやもやがストンストンとあるべき場所に収まっていくので、一種のカタルシスまで覚えるものだ。

 そしてその事に気づいたほむらは、インキュベイターの桎梏から逃れてまどかを降臨させ、浄化されることになる。

 …で、終わっていれば物語はすっきりと終われるはずだった。そして、恐らくはこれこそが視聴者の大多数が望んでいたラストでもある。

 だが、これで終わらせないのが新房虚淵コンビの恐ろしさ。と、言うか、実はここまでが話の序章に過ぎず、ここからがこの物語の本題へと移っていくのである。

 ここで明らかになるのは、この状況、実はほむら自身が望んでいたものだと言うこと。

 実はほむらの望みはインキュベイターのものと同じ。女神化して認識されなくなったまどかを地上に引きずり落とす事だった。

 彼女にとってはまどかは特別な存在だった。テレビ版でほむらが何度も時を越えてまどかを魔法少女にさせないよう努力したのは、まどかに人並みの幸せを与えるためで、彼女の幸せのためなら自分自身を含めてどんなものも犠牲にする事を厭わなかった。

 では一見ハッピーエンドに見えたあのテレビ版の終わり方は、ほむらにとってはどうだっただろう?まどかに与えたかった平穏な日々を与えることはできず、更に永遠に魔女化しようとしてる魔法少女を浄化し続けねばならない重荷を負わせてしまうことになる。しかも認知外の存在となったまどかを過去に戻って救うことはもう出来ない。つまり、ほむらにとって、実はあの終わり方は完璧なる敗北だったことになる。

 それをリベンジするにはどうするか?ほむらはインキュベイターを利用することを思いついた。キュウべえにわざわざまどかのことを話したのは、決して失言なんかではない。ああ語ることによって、まどかを捕らえる手助けをさせるためだったのだ。

 そのために自分自身が魔女になろうと、はたまた悪魔になろうとも厭わず、まどかに人間としての人生を与えようとしていたのだ。結局ほむらだけは全くぶれることなくまどかのことだけを思っていたと言うことになる。

 一方、まどかが女神となったのは、そんな精神的な牢獄からほむらを救うためだったはずだった。その重すぎる愛から解放して、ほむらにも普通な幸せを送って欲しいと願って、彼女のことを思って女神となる決意をした。ほむらの命が終わるときには必ず迎えにくることを約束して。見事に二人とも自分を犠牲にしても相手のことを一番に考えていたが、その結果は全く異なることになったわけだ。そしてテレビ版ではまどかの愛が勝利を収めた。ところがこの劇場版において、ほむらの執念はそれをも覆して見せた。それがこの作品の意味だ。

 まどかにとっての正しい行動は、ほむらにとっては敗北。だが延長戦となった本作で、一気に逆転させて見せた。あれほどすっきり終わったハッピーエンドが実は本当の意味ではハッピーではなかったというオチとなった訳だ。

 だからこそ、本作はテレビ版を完全に上書きする話であり、あの余韻を全てぶちこわすためにこそ作られた物語と言って良い。なんとも凄まじい脚本である。たとえそれが誰も望んじゃいないレベルではあったとしても。

 ただ、劇場版のラストを観てみれば、これは決してもう一つのハッピーエンドになってる訳ではないことは分かるだろう。エネルギーの塊を無理やり人型に押し込めてしまったことで、世界に歪みを生じさせてしまった。このまままどかを普通の人間としてこの世につなぎ止めておけるのか?まどかの一生をほむらは面倒看続けることが出来るのか?どうやらそれは難しそうだ。

 いずれにせよ、この映画の本当の意味合いは、一見、「そう言う見方しか出来ない」ものを、全く逆転させることが出来るということを示したものと考えても良い。そう。かつて富野悠由季が「Zガンダム」を作ることで「ガンダム」世界を破壊しようとしたように。それ以上に徹底して物語を逆転させて見せた、その力業に拍手を送ろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)ロープブレーク[*] なつめ[*] サイモン64[*] MSRkb 4分33秒

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