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[コメント] ニューヨークの王様(1957/英)

アフガン戦争からこっち、この映画を観てからアメリカを考えると、まさにチャップリンの言ってる通りになってます。時代を捉えることにかけて、チャップリンは間違いなく最高の識者でした。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 イギリス出身の大道芸人であったチャップリンは希望を持ってアメリカに行き、そこで「映画の神様」とまで称されるに至った。だが、その虚しさをチャップリンは本当によく分かっていたらしい。今歓呼の手を振っている聴衆が、一瞬後には自分自身に対する告発者になる。しかしたとえそうであったとしても、映画は大衆のものであり、社会に対する挑戦である。という一貫した主張を持ち続けた。彼の作品は大笑いするよりも、どこかシニカルさがある笑いを楽しむものであり、そのシニカルさを忘れなかったが故にコメディの王様であり続けたのだ(同時期に同じくコメディを追求したキートンとはこの点で大きく異なっていると思う)。チャップリンの作品には常に“自由であること”という命題がついて回っていた。

 “自由であること”とは、チャップリンの常に変わらない格好によってもよく分かるだろう。あの格好は自由であり続けることを求めるチャップリン自身の思いが具現化した形でもあったのだから。劇中では、あの格好故に社会にはなかなか受け入れられない。しかし自由である浮浪者が世間の常識とぶつかり合うことが映画の面白さになっていた。

 故にこそ、その“自由”を奪う社会をチャップリンは徹底的に攻撃した。アメリカ時代のチャップリンの後半の作品の多くはストレートに社会に対する批判になっている。  最も有名なのは『チャップリンの独裁者』(1940)で、これによってファシズムを批判したが、映画の最後で演説した内容が共産主義的であるとされ、これが後の赤狩りに目を付けられるきっかけを作ってしまった。今『独裁者』を観るなら、あれは人間が人間によって抑圧される事は悲しむべき事である。という主張に他ならないのだが、マッカーシズム溢れる当時はそう見られなかったと言うわけだ(実質的には『チャップリンの殺人狂時代』(1947)が直接の原因となるが)。

 どれほど有名になろうと、ヒーローになろうと、結局は「国を愛する心がない」とされ、国外追放になってしまった。

 そこで、アメリカの今に怒りを込めて主張したのが本作。『独裁者』のファシズムへの非難をここではマッカーシズムに転換している。

 ただ、ここでのチャップリンの演技はやや精彩に欠けるのも事実。前作『ライムライト』で自身の演技の総決算をしてしまったからか、それとも怒りが直接的すぎたか、あるいはヒロインなしの脚本は無理があったのか(?)、かなり苦しい物語展開となってるし、マッカーシズムに対する攻撃もストレートに過ぎ、ちょっと鼻につく。終わり方も中途半端という感じだし…物語そのものもいくつかの小ネタはともかく、ほっとさせてくれるところがない。

 意気は高かったのだろうが、思いが空回りしすぎたかな?  ただし、この設定に関しては文句なく素晴らしい。特に現代のアメリカという国は…実はチャップリンが危惧した通りのものになってしまっているという、その先見性は評価しすぎるという事はない。 

(評価:★4)

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