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[コメント] ウォッチメン(2009/米)

正直、本作の感想としては、「打ちのめされた」というのに近いものがあります。見事な“衝撃”でした。原作は何としてでも読まねば。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 …尤もそれは、映画の出来云々の問題じゃない。最も驚いたのは、こんなコミックが、しかもアメリカにあったのか!という衝撃である。映画じゃなくてコミックとしての出来に驚かされた。はっきり言って、この原作者には激しい嫉妬を覚える。世の中には私と同じようなことを考え、しかも突き詰めて考えた人がいるもんだ。いつか私なりにヒーローの定義と言うものを類型を出して説明し、一大論文を展開させてやろうと、前々から考えていた。そんな時に本作を観てしまった…

 マジでショック大きかった。クソったれ。なんでもうそれ作った奴がいるの?しかもここまで洗練した思考で?正直この映画、ものすごい情報量が私の中に入ってきたが、こんな提示されたものを受け取るんじゃなく、私に考えさせてくれよ!と言いたいことが多々。映画観てる間、とても幸せな気分であるとともに、ものすごい後悔の嵐に苛まれてしまった。

 この映画…ではなく、原作で描かれたのは、ヒーローの定義付けだった。ここに登場するヒーローたちはもちろん「ウォッチメン」という世界観の中でのオリジナルのヒーロー達には違いないが、その向こう側にスーパーマンやバットマンたちの姿が透けて見えてくる。こう言ったシチュエーションの中に置かれたら、彼らは一体どう行動するだろうか?ということを、半ば二次創作的な感覚で作っているのだが、そのシチュエーションが半端なく魅力的だ。

 これはヒーローと呼ばれる存在が比較的普通に認知されてる世界だが、認知されているが故にいくつもの困難に直面することになる。そこでいくつかのマイナスの前提条件をたたきつけ、そのシチュエーションで自らをヒーローとなし続けていくモチベーションはどこにあるのか?かなり設定的に厳しい条件を強いていくが、それでも尚、ヒーローをヒーローたらしめる部分はどこにある?と言うことが描かれることになった。つまり一旦ヒーローと呼ばれる存在を完全に解体し、その上でヒーローたる存在とは何であるのか?そのことを問いかけようとしている。

 そのために一旦ヒーローを解体する。このマイナス要因となる前提をまず考えてみよう。

 まず、キーン条例なるものによって自警団は解散させられた時代であるため、国家のバックアップは受けられない。そもそもその国家自体が超がつくタカ派になってしまってるので、国のために働く気にさせられない。さらにここまでの活動経歴で嫌と言うほどこれまでに個人で出来る限界と言うものを見せつけられている。一人が活躍したところで、世界平和には貢献できないし、真の意味で何かを救おうとするならば、見返りに汚さが必要であることも知らされている。その矛盾の中で、あるヒーローは守るべき市民の手で殺されてしまうし、あるヒーローは心を病む。そんなシチュエーションに放り込まれた、現代のヒーローたちのアイデンティティはどこにあるのか。

 彼らは確かに一般人と比べると多少能力は高いかもしれない。暴漢たちと戦ったら、相手が何人いようとぶちのめせるし、火や水の中に入ってもさほどの怪我もなく生還することもできる。だが、そんな能力があるからと言って、だからヒーローになれるはずはない。相対的な時代だから、明確な正義も定義しにくい。要するに、人より正義感があふれていて、人よりちょっと強いというだけではヒーローとはなれないと言うことになる。  それで苦悩した結果、自らの身の置き所をそれぞれ見つけていく。以下一人一人のヒーローの今を考えてみよう。

 ナイトオウル(ダン)は、すべてを封印し、一般市民として生きる道を選んだ。

 オジマンディアス(エイドリアン)は、ヒーロー時代に培った人脈を最大限使用して、更なる大きな目標、人類の恒久平和を実現しようと、日夜研究を続ける(その研究については後述)。

 シルク・スペクター(ローレル)は、立場的にはオウルと同様ながら、マンハッタンとコンビを組むことで世界平和に役立っていると信じたがっている。

 ロールシャク(ロールシャッハー:ウォルター)は、法的なバックアップを受けることなく、たとえ犯罪者として警察に追われようとも、自らの信じる正義(多くは犯罪者の撲滅)を貫こうとする。

 そしてコメディアン(エドワード)はアメリカと言う国の、指導者のために戦うことによりヒーローであり続けようとした。

 以上5人のかつてのヒーローの“今”なのだが、ヒーローであることの存在を止められた際、それぞれがどうアイデンティティを保っているのかがよく分かって興味深い。類型として、このシチュエーションに置かれたらこんな行動するだろう?と思わせるのばかり。

 この中で一番面白いのがコメディアンだろう。彼は一番長くヒーローとして活躍していたため、一番矛盾も理解していた。どれほどヒーローとして能力を持っていたとしても、それだけでは何にもならないことを一番よく知っていたし、矛盾にさらされ続けたおかげで正義感もすり減っている(劇中暴徒に催涙弾をぶちかましながら「これがアメリカンドリームだ」と叫んでいたのは、彼なりの苦悩が皮肉になって出たと思われる)。だから彼は自分の能力を最も効果的に使ってくれる場所に身を寄せて、一方の正義に加担することでヒーローでありつづけようとした。その結果、彼の得たものは、決して表に出すことが出来ない数々の勲章と、政治家連中と結びつくことで多少の罪はすべて免除される特権、マンハッタンのコンドミニアムといった、物理的な豊かさだった。一般的な定義で言うなら彼は悪人である。だが、国レベルで考えるなら、彼は正義の体現者でもあるのだ。

 彼と見事な対比になっているのがロールシャク。彼もまた闇の世界で生きることを選びはしたが、コメディアンとはまったく逆の方法をとった。彼はバットマン的なヒーロー気質の持ち主で、どんな状況におかれても、悪を許すことが出来ない。たとえそれがヒーローとされて人々に称賛されていても、逆に非難の的になったとしても、彼はヒーローであることをやめることは出来ない。ある意味では、だれにも称賛されない、市民によって憎まれる存在であっても心がすでに壊れている彼こそ、本来的なヒーローの姿とも言える。

 この二人は形はまったく違えど、これまで自分たちが行ってきたヒーロー的行為を今も尚続けている人物である。

 対して、それまでとは形をまったく変え、新しい形のヒーローとなったのがオジマンディアス。彼は自分自身がヒーローであったことを明かし、それを逆に武器にして経済界でのしあがる。これは別に自分のためと言うのではなく、自らが思い描く世界平和への布石のためだった。彼の考える世界平和とは、二つの方向性を持つ。一つはエネルギー問題で、そのため化石燃料を使わぬ無公害且つ安価なエネルギーをマンハッタンと共に作り上げる。そしてもう一つは、世界の国々がイデオロギーを超えて手を携えることだった。そしてそれは実際に成功させてしまう。引退したヒーローが至るべき、本物の理想的な姿がここにはある。

 彼らはそれぞれが独自にヒーローとしての活動を続けている。ヒーローのアイデンティティを壊されて尚、ヒーローたるべく模索した結果、自らのあたらしいアイデンティティを確立した。

 しかし一方ではそれが出来なかったヒーローも二人いる。ナイトオウルは「私の役割はもう終わったのだ」と自らに言い聞かせながら、不完全燃焼のまま生き続け(『ランボー』や『ディア・ハンター』を髣髴させるシチュエーションだ)、シルクは自分の存在意義は恋人であるマンハッタンの人間性をとどめるためと位置づけているものの、主体が自分ではない上に、マンハッタンがどんどん人間性から離れていくので、やっぱり燃焼不良を感じている。二人は逢えば思い出話をしてうさ晴らしをするしかストレスの解消法がない。傷を舐めあい、ますます傷つきあい続けてる。

 後はDr.マンハッタンがいるが、こいつは存在そのものが超人であり、もはや人間性を失ったキャラだけに、“ヒーローで無くなった”というテーゼは成り立たないため、ここでは除外。

 強制的にヒーローで無くされた面々のそれぞれの生き方は上記の通り。ではそんな彼らが、一同に介してどんな物語が作られるのか…

 結果として出来上がったのは、ヒーロー同士の争いの話だった。

 登場するヒーローたちはそれぞれが自分なりの正義を持ち、それを貫こうとするのだが、それは必ずぶつかり合う。そしてそれが結果として敵対という形を取らざるを得なくなってしまう。この作品には明確に悪人というのはいない。正義同士がつぶし合う物語なのだ。

 ここではオジマンディアスの考える世界平和というのが話の中心となる。彼の理想は世界的に恒久平和をもたらすこと。その平和のためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切ってしまった。彼は無公害のエネルギー開発は成し遂げた。それで残ったのは、大国同士の戦いを止めさせると言うこと。そのために最も効果的な方法をとった。つまり、人類の敵という存在を設定し、それと戦うために人類は皆手を組まねばならない。と思わせようとしたのだ。これは彼なりの“正義”ではあっても、そのために数百万規模の人間を見せしめで殺すこととなり、一般的な意味では彼こそが人類の敵となってしまう。そのため本物の超人であるマンハッタンを敵に仕立て、その事実を察した人間は全員殺すという方法をさえ用いている。彼の目的を知り、同調が出来なければ消すしかない。それで人類が平和になれば良いではないか。もの凄い割り切り方で、最も効率が良い方法ではある。

 何度も書くが、ここで問いかけられるのは、「ヒーローとは一体どんな存在であるのか?」という命題である。人類を救うために人を殺すのがヒーローなのか、それとも、どんな人の命をも救うために戦うのがヒーローなのか。最終的にオジマンディアスとロールシャクの二人の考え方の戦いとなっていく。

 この二人の考え方の戦いは、実は決着が付かない。この物語では最も無個性でヒーロー願望だけが高いナイトオウルが主人公的な役割を担うことになるのだが、彼の役割は、結果として“観る”だけの存在となる。彼はそれぞれの正義を認めながら、そのどれも選択することが出来ないままに終わってしまうのだ。

 ナイトオウルは一応はロールシャクに同調してはいるが、既にそれが遅かったことを知らされた後では、オジマンディアスの考え方に同調せざるを得ない。それでも自分の正義を貫こうとして半ば自殺のように殺されたロールシャクのようには生きる事が出来ず、世界の秘密を知ってしまった彼は、後はそれを悔やみながら生き続けるしかない。正義とは一体何なのか、その事を問いかけつつ…

 そう言う意味で極めて後味の悪い終わり方をするのだが、それによって全面核戦争の危機は去り、全ての国はマンハッタンの攻撃に怯えつつ、手をつないで平和が訪れる。

 …ところで、一見あまり意味の無いようなラストの付け加えだが、あれは実はとんでもない問題をはらんでるような気がする。あそこでもしロールシャクの手記が全てをばらしてしまうのなら、オジマンディアスの考えは全て無駄になり、世界平和は永遠に訪れないという事になりかねないのだが?あるいはあれは単なるゴシップで、「忘れてない人がいるぞ」という警告に過ぎないのか?ちょっと判断が付かない。読まなければならないマンガが又一冊増えたのは確かだな。

(評価:★5)

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