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[コメント] ミリオンダラー・ベイビー(2004/米)

泣くことすら出来ないうつろな哀しみと、拳を握る力さえ生まぬあてどない怒り、その間に危うく置かれたささやかな「尊厳」のための椅子に座って食べるレモン・パイ。うーん、でも、これはちょっと違うんじゃないか、というのが正直な感想。苦渋の★三つ。
ぐるぐる

**ネタバレ注意**
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要するに、もしかしたら ヒラリー・スワンク が上手すぎたんじゃなかろうか? 

まあ、ここでは最早、それがどんなに見事であったとしても、クリント・イーストウッド 監督一流の、いよいよ円熟した語り口を堪能している場合ではないだろう。『真夜中のサバナ』くらいならともかく、この映画はそれにしては重すぎる。しかも何か、体の右側には耐え難い重さが残り、左側には喪失感の空白の深さが残るような、アンバランスな居心地の悪さ。

構造からすれば、これはあくまでモーガン・フリーマンを語り部としたクリント・イーストウッド の物語であって、ヒラリー・スワンクはその二人の間に降って来る「機会」という、いわば物語の触媒の役割を与えられているに過ぎない。だからこそ、彼女を含め、その家族、神父、道化、ヒール役のボクサーなど、老友二人が出会い二人を取り巻く人々は、ここではみんなディテール=リアリティが「省略」され、ただ、背景・記号として、老優たちの枯れた芝居を導いて行く小路の柵のようなものになっているのではないか。

しかし、その「ミリオンダラー・ベイビー」=ヒラリー・スワンクは、触媒であるにしては、記号であるにしては、象徴であるにしては、イデアであるにしては、あまりにもリアルなのだ。いくらトレーニングや試合の演出を「省略」しても、いくら不幸な生い立ちを戯画化して見せても、彼女は画面上でまばゆいばかりに輝いてしまっているばかりか、生々しくずっと身近に感じられてしまう。つまり観客としては、老人たちの人生観照に感ずるよりも先にこの不幸な天使の瞳に魅入られてしまうワケだ。そしてこの映画を彼女の物語として捉えてしまうからこそ、彼女のために思いっきり泣きたくなり、意図的に省略されたディテールの不足をして「もっと濃やかに語られなければならないことが残っている」と不満に感じるのではないか。

まあ、この辺の感じ方は観るものの年齢などによっても変わってくるのかもしれないが、やはり、これは監督としては誤算なのではないだろうか? つまり、他ならぬクリント・イーストウッドが、そのいささかナルシスティックな演出にもかかわらず、画面上でヒラリー・スワンクの存在感に完全に喰われてしまっていること、それがそもそもこの物語をバランスの悪いものにしているように思えてならない。

そうして、その部分を自己流に「補正」して考えてみても、僕にとってはこの物語、つまり老トレイナー=フランキー・ダンの物語には、いささか無理な感情移入を強いられる気がした。過度の頑固さと自意識の過剰、要するにフランキーは付き返される手紙を出し続けることに満足しているだけじゃあないか? これじゃあやっぱり、ケイティも結局最後まで許してはれないんだろうなあ・・・ って、もしかしてそういう話なのか???

すいません、僕にはこの映画、やっぱりよく判りませんでした。m(__)m

(評価:★3)

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