[コメント] 自転車泥棒(1948/伊)
少年は経験するのが早過ぎただけだった。
父親と息子の関係は特殊だ。
いつかは父を追い越して立派に育って欲しいと願いつつも、男として追い越される瞬間を迎えるのは辛いはずだ。
尊敬や敬慕、畏怖や慈愛。息子が父親に対する気持ちは多々あるが、「同情」という概念だけはないだろう。
しかし、少年が成長し青年になり、中年の父親と同じ世代になる頃、父は老いて、たくましく成長した息子に生活全般を頼らざるを得なくなっているだろう。脚が弱り息子の手を借りなければ歩けない状態になるかもしれない。
そう、いずれ父は息子に対して「同情」で接してもらう時期が来るのだ。
本作の少年は目の前で「哀れな男=父親」を目撃することになる。群集に取り囲まれ、殴られ、吊るし上げられる。少年が父に「同情」する心を持たざるを得なかったのは早過ぎた。
この後、この親子は「子が親に同情した」という事実を忘れることなく生きていかざるを得ないのだろう。父親は少年に対して尊敬や畏怖や慈愛を身を持って教育していく機会を無くした。
そして、監督はそういった「その後」を解決する指標を何ひとつ示さずに、映画史上稀な非情さで終わらせた。
この題材は戦後の荒廃したイタリアを舞台にしており、現代の豊饒な日本ではとても現実味がないストーリーかもしれない。しかし、主人公の父親をリストラされた男に置き換えてみれば実に現代的な題材として、周りが見えてくる。
連日報道される失業者の数には、それに倍する妻や子供たちの数が含まれてはいない。リストラされ家で苦悩する父親を、ブルーノ少年と同じ視線で見やる子供たちが大勢いる事を忘れてはいけないと感じた。
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