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[コメント] アメリカン・スナイパー(2014/米)

イーストウッドによる「最後の西部劇」
Orpheus

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







クリント・イーストウッドという男は、語りたかったことを『グラン・トリノ』ですべて語り尽くした、と私は考えている。だから、その後の彼の作品は「映画ファンに対するボーナストラック」のようなものではなかろうか。だが、映画製作の最前線に立つ者としては、どんなに歳をとっても(本作を撮った時、巨匠は84歳である)「試したいアイディア」は尽きないようだ。例えば『ヒア アフター』の津波の水中シーンや本作における砂嵐のシーンなどがそうだが、これが例えば若い監督であれば全編に渡ってやり過ぎてしまうところを、イーストウッドは必要十分な匙加減で最新技術を取り入れてピンポイントで使ってくるので、巨匠のそうした試み(ボーナストラックゆえの遊び心といっても良いかもしれない)が《映画的体験》を生み出せているか、その効果のほどを見るのもファンとしては楽しみなところだ。

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さて、本作は直近の戦争を取り上げているだけでなく、制作準備段階で主人公のクリス・カイル本人が殺害されたこともあって、着地点をどう描くかが(のちの歴史が決めるのではなく、この作品を通して制作側が「クリス・カイルという男」に対する評価を下すことになるという点で)注目されることになった。実際、アメリカでは公開直後から賛否両論、物議を醸しているが、後述のエンド・クレジット部分を除けば、イーストウッドは《映画的である》ことをまず優先させたように思われる。

この映画を動かしているものは何か。ひとつは子供の描き方とそれに対するカイルの反応だろう。例えば、予告篇でも使われた冒頭のシーン。クリスが実際にイラクで最初に射殺したのは女性だったそうだが、この映画ではわざわざ子供→女性の順に撃ち殺しており、味方に危害を及ぼす者は誰だろうと容赦しない戦場の非情さが強調されている。また、中盤にかけて「敵を峻別し屠る」主人公の狙撃手としてのルーチンワークを描きつつも、米軍に内通した者に対する見せしめとして子供がドリルで頭をえぐられるシーンや、死んだ大人の代わりに子供がRPGを手にとって米軍に向けて構え、あわや冒頭の悲劇の再現かと思わせるシーンなどで、視線の先には「加害者であったり、被害者であったりする子供」が逐一配置され、クリスと観客を翻弄する。こうした一連の描写はもちろん、クリスがかつて父親に聞かされ、信じてきた「番犬は羊の群れを狼から守らなくてはいけない」というカウボーイ的=西部劇的なロジックを根幹から揺らがせる、「状況次第でたやすく羊も狼に変わる」という現実を炙り出すための《映画的な》仕掛けに他ならない。その後、帰国したクリスが保育室の窓ガラス越しに泣く赤ん坊(別にこれは異常でも何でもない。言葉を話せない赤ん坊は泣くことで意思表示する)を保育士が放置したと思い込んで激高するシーンや、子供にじゃれただけの大型犬を殺しそうになるシーンなどでも、「本当の羊を見つけて守る」ことに固執するクリスの価値観が中東における戦争体験で先鋭化され、母国の一般市民の常識から大きく乖離してしまった様を描いたものだが、ここでもやはり「弱き者=守られるべき羊としての子供」の生存が危ぶまれる映像が積み重ねられ、クリスを衝動的な「行動」へと駆り立てていく。

そして、この映画のもうひとつの柱はもちろん、狙撃手クリスがファルージャで対峙するシリア出身の敵スナイパー、ムスタファとの直接対決だ。現代の戦争が舞台となってはいるものの、この古風な《直接対決》の構図を取り入れたことで、本作は中東における「西部劇」となったのだ。実際、包囲されて弾薬が尽きるまで死闘を繰り広げる様など、砦を襲うインディアンと戦う騎兵隊のそれと一体何が違うというのか。2kmにも届こうかという主人公のロングショット(この安易なスローモーションの「試み」は失敗だと思うので減点)でムスタファを屠り、大砂塵に包まれて撤退したところで映画は失速する。とはいえ、帰国後のPTSDに苦しむ傷痍軍人・帰還兵のサポートや、妻とのやりとりの中でも銃が終始登場し、戦場から去ってもこれが「銃を正妻としたスナイパーの物語」であることに変わりはない。であれば、主人公が銃で撃たれて殺される過程まで描かなければ、この「物語」は不完全なものになってしまう訳だが、クリス・カイル殺害犯の裁判前ということもあってか本作では主人公の死は描かれず(死の当日、殺害犯に不吉なものを感じた妻タヤの表情で事件を暗示させるだけだ)、映画は足早に葬送の記録映像へと切り替わる(クリスを殺害した元海兵隊員もPTSDに苦しんでいたとのことで、衝動的行動から撃ってしまった「戦争の犠牲者」だったのかもしれないが、映画からは割愛されてしまったため、我々観客はただ想像するしかない)。

21世紀に入ってもカウボーイ的な思考から抜け出せず、暴力の連鎖する世界に新しい暴力の種を蒔き続け、漂流し続ける超大国アメリカ。「カウボーイでは食っていけず、国をテロリストから守るために精鋭部隊シールズに飛び込んだ」とクリスは言った。そしてこうも言ってなかっただろうか?「蛮人どもを殺して何が悪い」と。これは、かつてのインディアンに始まり、旧日本軍や旧ベトナム軍、そして直近ではイラクやアフガニスタンなどの中東の人々に至るまで、アメリカ人が繰り返し投げつけてきた言葉だ。イーストウッドはこの主人公の言葉をあえて否定はせず、力で相手を消し去る西部劇的なロジックが最新の武器とカイルのように鍛え抜かれた忠実な兵士によって維持されている祖国、すなわち「殺人マシンと化した番犬アメリカ」の老醜を描いているのである。そして映画の終わり、クリス・カイルの葬送後にイーストウッドは音楽をつけなかった。ここで勇壮な音楽などつければクリス・カイルの行為は正当化され、イラク戦争の英雄を称えるだけの作品に成り下がってしまっただろう。だが、撃ち殺された者も、撃ち殺した者も、死後は等しく「無」に帰っていく。それを悼む人々には必要だとしても、死せる者に音楽は不要だ。この葬送の後の「沈黙による演出」は、力で相手を消し去る西部劇行為からは結局解決策は生まれない(行き着く先は同じ暴力による死)という監督の最後のメッセージ、遺言状のようにも感じられた。その意味で本作はまさしく、かつて西部劇で名を馳せたイーストウッドによる「最後の西部劇」なのである。

※あるいは、この無音のエンド・クレジットは「犠牲者の生々しい声」を被せることで暴力によるテロへの復讐を正当化しようとする『ゼロ・ダーク・サーティ』のオープニングに対するイーストウッドの回答なのかもしれない。

以下のレビュー参照: http://cinema.intercritique.com/comment.cgi?u=2055&mid=23937

※葬送シーンで朗々とかかる楽曲は、かつてイーストウッドの西部劇をノスタルジックに彩ったエンニオ・モリコーネによる"Funeral"。

※実は主人公が銃で頭を撃たれて死ぬシーン自体は撮影されていたものの、遺族の反対にあってカットされたらしい。かくして本作は「銃に始まり、銃に終わる」円環を閉じることができなかったが、逆にこのシーンがないことで、観客はクリスの唐突すぎる死の軽さと向き合い、現実の世界に英雄などいないことを思い知らされるのである。

(評価:★3)

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