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[コメント] 男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971/日)

母とは何か。
ぱーこ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







放浪を続ける寅にとって、故郷、葛飾柴又こそ自分が何をしても受け入れてくれる母性的な場所である。そこにいる腹違いの妹さくらはこの母親的なものの具現化である。これは随分と倒錯的な設定で、さくらの子供が寅に似ているという、ある意味笑えない冗談もこの倒錯性を表している。

このシリーズで性愛表現はタブーになっている。寅がマドンナと現実的に恋人・結婚へと到る道はあらかじめ封鎖されている。だから続男はつらいよ、で実の母が経営する連れ込み旅館にマドンナ佐藤オリエと一緒に入り、ラブホテルの装具を始め母親と間違えた風見章子が淡々と説明するシーンのおかしさは、このタブーに接触する危機をはらんだおかしさである。

今作はこの母性のテーマが繰り返し語られるが、母性のさまざまな局面を取り上げるだけで解答を与えていない。生みの母、ミヤコ蝶々がずいぶんと若い。やつれた印象がない。寅にさんざん毒づかれてブチ切れる母親であるが、さくらの心情こもった箴言で母親らしい涙を見せる帝国ホテル客室のシーン

博の母親の葬儀の場で語られる母に対する評価は分裂する。母親は自分のしたいこと(自由な女として外国に旅行したかった)を封印して忍従のもとに結婚生活を送った不幸な母であると博は言う。長男はそんなこともあったかもしれないが、父親につくした生活にも満足はあったのではないか、と評価する。これに対してその場では判断は表明されない。

志村喬が寅に説教する理想の人間の生き方。りんどう咲く庭の一家団欒、それは母親によって支えられているはずでそうした家を保持するのが母親としての正しいあり方、と説いているように聞こえる。(ここで子供が一人帰ってこない、ということになっていて、これは博ー寅の暗喩になっている)

寅が酔ってさくらに歌え!と命じる場面。寅はいつもの善意が空回りするおちょこちょいの善人ではない。ある種のデーモンに憑依された悪意の審判官である。さくらはこのデーモンの挑戦に決然と対峙して歌う。かあさんの歌である。さしもの悪魔もこのさくらの攻撃によって慰撫されすごすごと退散せざるを得ない。母なるもの力である。

和装の足元を写して寅がマドンナと間違えて浮ついたセリフをいうシーン。ここはマドンナ→さくら→母なるものへの移行を示しているように見える。池内淳子の設定は子供のいる未亡人でここにも不完全な母親がいる。この池内が語る自由な旅する女への憧憬は、寅の中では母性の混乱として受け取られる。寅の収入で所帯を持てないという現実的な理由より、寅の求める母親のような恋人というイメージに混乱が生じるからだ。

さくらの最後のセリフ。「おにいちゃんと変わってみたい。(おにいちゃんが)こたつでみかんを食べながら、私のことを心配してごらんよ」には、さくらがだどんなにお兄ちゃんを心配しているかを伝えたい、という母性の表明と、なにものにも縛られず自由な女として生きたい、という母性とは対極的な女の生き方を表すダブルミーニングになっている。

お約束のラストシーンで無垢なる旅芸人に迎えられる寅。旅の空にも寅を受け入れる母性があったということなのか。山田洋次の提起する母親像の問題が多くの観客の無意識の琴線にふれるからこのシリーズの支持が絶えないんだと思う。

(評価:★4)

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