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[コメント] ブンミおじさんの森(2010/タイ=英=仏=独=スペイン=オランダ)

始めから終わりまで映画は「気配」を発散し続ける。ウィーラセタクンの興味は人物の性格や物語になどなく、すべての事象の裏に潜んでいる「気配」を視覚化することにある。そこに、人の外面としての煩悩と、無形の「気配」としての清廉との交歓が立ち表れる。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ブンミは、共産軍兵士の殺害を悔い、死んだ妻のために養蜂場を作り、人を雇うまでの農園の経営者となり、そして自分の死後や義妹の老後に気にかける。彼は、そんなどこにでもいる平凡な男であり、つまりは我々そのものだ。ブンミのように過去、現在、そして未来という自らの死後の有り方にまで、煩わされるのが人という生き物だ。

ブンミは妻の霊に導かれ、森の精霊となった息子たちが木立の陰から見守るなか死へと旅立つ。容姿へのコンプレックスから心が歪んだ醜女の王女は、自ら虚飾をはぎ取るように華美な装飾を捨て去り、美醜や富とは無縁の水の精と交わり生の喜びに身をまかす。ここに立ち表れるのは、「気配」が生み出した時間と空間を所有しない何者か(精霊たち)による煩悩からの解放だ。

実は、その何者か(精霊たち)もまた、生き物の本能として人の意識の奥底に潜んでいるのだ。いや、人だけではないかもしれない。冒頭、暗闇のなか森へと逃走(本能だ)し飼い主に見つかり連れ戻されてしまう牛。この牛の無意識という意識も、人間界という制約の世界と、森の暗闇という生き物にとって時間と空間が消滅する世界の狭間を彷徨っているのかもしれない。

ウィーラセタクンの映像世界が発散する「気配」は、生き物が生き物であることの不安定さや、時間と空間の不確かな危うさを顕在化する。しかも、この「気配」を体験した者はある種の特権を得るのだ。ブンミとともに森を彷徨った義妹とその息子は、目の前に現れたもう一人の自分を難なく受け入れることができる。しかし、「気配」をまだ知らぬ娘の方は、自らの姿すら目撃することはない。

スクリーンに淡々と提示される世界は、ただそこにあるだけで、幸福や不幸という人知の域に属する概念が存在しない。だからこそ、また心地よくもあるのだ。アピチャッポン・ウィーラセタクンは、何とも特異な世界観、いや生物観を持った映像作家であった。

(評価:★5)

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