[コメント] 歩いても 歩いても(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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家族ならなおさらのことだ。そして、家族という近しい関係だからこそ、そこには無遠慮に互いのエゴや甘えやコンプレックスが入り乱れる。そんな「小さなこと」の応酬の向こう側に、それぞれが抱え込んだ大きな不安や不満が透けて見えるのが面白い。しかし、その不満が決して不快でないのは、その根本もまた互いを思いやる気持から発せられているからだ。他人同士が営みを始め、やがて子供ができ、その子供がまた他人との新たな営みを始める。家族の関係とは、人が経てきた過程と、これから歩んでいく先に張り巡らされた、思いやりと不満のしがらみの関係なのだ。
彼らは頻繁に、山の中腹の家から海辺へ、あるいは、さらに山頂にある墓地へと、歩いて坂を下り、そしてまた歩いて登る。ときに老父(原田芳雄)ひとりで。ときに、老母(樹木希林)と良多(阿部寛)、ゆかり(夏川結衣)と息子あつし(田中祥平)という二世代の母と息子が。そして、老父(原田芳雄)、良多(阿部寛)、あつし(田中祥平)という三世代の男が、この坂道を歩く。おそらく一家は、亡くなった長男も含め、この坂を何十年に渡り、何度も登り、下ったことだろう。唐突かもしれないが、私は『裸の島』(新藤兼人)の、来る日も来る日も、重い水桶を担ぎながら山を登り続ける夫婦を思い出していた。営みとは、「歩いても 歩いても」という日常の積み重ねなのだ。
実父の死を、幼い頭で半ば強制的に割り切ろうとしているあつし(田中祥平)は、死んだウサギに手紙など書いて誰が読むのだとあざ笑ったという。母のゆかり(夏川結衣)は、死んだものは近親者の心の中で生きているのだとあつしに教える。ならば、死者に向けて書かれた手紙は、その死者を心に抱き続ける者、すなわち手紙を書いた当人にしか読めないだろう。映画は、老父母を亡くした良多(阿部寛)一家の墓参りで終わる。良多は父と母に手紙を書いただろうか。おそらく、この物語こそが父と母への手紙だろう。もう、そこには父に対する大きな不満も、母に対する小さな不満も存在しないはずだ。あるとすれば、これから未来へと続く良多一家のなかにこそ、次の大きな不満や小さな不満は現れるのだろう。それが「営む」ということなのだから。
鑑賞中、私自身がその場に居合わせているかのようなリアルさを、ずっと感じていた。ドキュメンタリー風の映画をつくる演出家といわれ、『誰も知らない』(05)でその作風の頂点を極めたかに見えた是枝裕和は、一旦『花よりもなほ』(05)でいささかベタに過ぎる芝居劇を戦略的こなし、ふたたび日常的な言葉(セリフ)を駆使したリアルな作劇という手法を手にしたかに見える。
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