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[コメント] 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2007/日)

闘うことを決意した者は、必ず二つの対象を敵にしなければならない。ひとつは倒すべき相手として、面前に具体的に存在する人物や組織や体制。もうひとつは、刻々と変化する状況と闘う意志の持続が、当事者の制御能力を自ら麻痺させるという人間の不思議さ。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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真摯すぎる革命家たちの不幸な物語に対して、いきなり卑近な例で申し訳ないが、その世界の頂点を目指す競技スポーツ者たちを思い浮かべると闘うということは、誰の何と闘うことなのかが分かる。競技者たちが目指す頂点が高ければ高いほど、彼らの意志は強固で鍛錬は過酷だ。そして、ときに彼らは疑心暗鬼に陥ったかのように、自らの意志を制御できず、ある種の過剰さが競うべき相手ではなく自分自身、すなわち「個人」へと向かい、その肉体を破壊てしまうほどの無謀な鍛錬を自らに課して自滅する。頂点を極める競技者には、必ずパートナーとして客観的観察者であるコーチが必要なのはそのためだろう。

結成わずか一年足らずで、指導部が北朝鮮へと亡命し、重信房子(伴杏里)らとともに指揮官クラスのメンバーがパレスチナへと脱出した赤軍派とは、頭(戦略)とヒレ(舵)を失くし、ただ海中を彷徨い浮遊する胴体だけの魚のような組織だったのかもしれない。彼らと連合赤軍を結成することになる神奈川左派(当時は、京浜安保共闘と発表されていた)もまた、幹部の逮捕と同志の死を経て憎悪だけを推進力に空回りし続ける面々だったのだろう。連合赤軍は、肥大化した胴体だけの魚。頭とヒレを失った魚には、とうてい敵の姿が見えなかっただろう。彼らが共有したのは、巨大でつかみどころない敵の幻影。

いつか闘わなければならない強大な敵の姿を見失い、迫りくる漠然とした恐怖を感じながら、彼らの真摯な推進力の矛先が、敵ではなく自分を含めた仲間たち個人に向かうのは必然だっただろう。何故なら、彼らには唯一の武器である連帯を確認するしかもはや戦略はなく、その先にはもう個人しか存在していなかったのだから。だが、彼らの真摯さはあまりも過剰に肥大化していた。互いに求め、求められた「自己の共産化による総括」という得体の知れない呪文のもと、彼らは互いに互いを「個人」に分断しながら自分自身を破壊してしまった。本来は、連帯を強化するはずだったのにである。

一方のリーダー永田(並木愛枝)に、自分の組織の弱点を指摘され、遠山(坂井真紀)ら同志に過酷な訓練を課すことで、誠実さと力を示そうとするもう一方のリーダー森(地曳豪)の、「行動」が「論理」を凌駕してしまう不思議さ。糾弾される遠山の女性性を、同調圧力に負け男以上に攻撃する金子(安部魔凛碧)、杉崎(奥田恵梨華)、寺林(神津千恵)ら女性兵士と、さらにその三人をも批判しながら坂口(ARATA)を捨てて、森のもとに女としてはしる永田の「性」をめぐる不思議さ。聡明であるはずの兵士たちの、いつまでも傍観者でいられることに安堵しつつ、傍観者でいることの恐怖と屈辱のなかで、「思考」と「判断」が停止する不思議さ。山岳アジトで、彼ら彼女らが、目にし体験したのは人間の不思議さだった。そして、彼らは人間の不思議さとの闘いに次々と敗北していったのだ。

1960年の安保闘争に始まり、2001年の重信房子による日本赤軍の解散に至るまで、40年に渡る新左翼の歴史を淡々と(重信と遠山、つまり女には妙に情緒的なのだが)描き続けた若松孝二だが、こらえきれないようにただひとつ「勇気」という概念を提示する。確かに考えてみるに「人間の不思議さ」を受け止め、対峙し、停止させ、修正できるのは「勇気」だけかもしれない。しかし、若松がこの作品で言葉にしてまで残そうとした「勇気」は、あまりにも重すぎて、今私の頭のなかに浮かぶ「勇気」と同質の概念であるかどうかが分からない。そこまで私は、真摯に生きてはこなかったのだから。彼らの意志を受け継いだ私と同世代の彼らの末裔たちの当時の純真さを、多少知っている身にはシビアな映画であった。

(評価:★4)

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