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[コメント] 美しきセルジュ(1958/仏)

ジェラール・ブランのバタ臭い風貌も含め、シャブロルの作風は極めてアメリカ寄りで、内容的にも同時代のT・ウィリアムズものを髣髴とさせるが、それだけにあの、手のひらを返すような素気無いラストは強烈だ。
町田

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







村を、延いては打ち負かされた自身を救済する為に、畸形児の誕生に奔走したフランソワ=ブリアリの目論みは、脆くも崩れ去る。

親友とその妻の血縁を疑い、産み捨てられるだろう畸形児の養育を申し出ること。これこそ考えうる究極の善意だろう。そんなフランソワは親友の満面の笑みを見て、決定的な敗北を味わうわけだが、皮肉なことに当初の目標であったセルジュ救済は果たされたわけで、これだけでも彼は村の英雄である。しかしシャブロルはそんな事実を描こうとはしない。この劇に於ける善意の悪意の勝敗を、観るものの判定に委ねているのだ。

本作が日本で公開されたのは21世紀を目前に控えた1999年になってのこと。私が観たのは2005年10月、池袋の新文芸座であったのだが、同所で何気なく購入した書籍によると最初の編集版は実に2時間半にも及ぶ無計画な長尺だったらしい。それを無理に一時間も短縮させたことで場面の繋がりに、大きな破綻が生じている。その際たるものは、セルジュが墓を横断し、マリーとフランソワの逢瀬に接近するシーンだが、この後用意されていたであろう修羅場(?)は綺麗さっぱりカットされている。その為か、マリーのフランソワに対する変節は、かなり唐突なものと感じられるのだが、どうだろう、このことは逆説的に映画の価値を高めているのではないだろうか?マリーの心情が謎であればあるほど、我々は彼女の肉体により強い執着を感じ得るのである。

尚この物語を読んだロッセリーニは、なんて青臭い話だと一蹴したそうだが、大江健三郎の『個人的な体験』より6年も前に作ったことに私は敬意を評したいと思う。

(評価:★3)

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