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[コメント] A.I.(2001/米)

一筋縄には行かない「愛情」の物語。この映画を成功させたのは,3人の内で,間違いなくオスメント少年である。だが映画はそんな単純ではない・・・。
死ぬまでシネマ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 2人の偉大な監督の交錯する想いの物語。

 映画が終わり,幕が開いても,観客たちの多くは押し黙ったままだ。涙で目を腫らしているひとも多いが,彼らは皆何かを考えて顔を顰めているのである。わたしは・何に・感動したのか?

 この映画は,キューブリックの強い想いを,スピルバーグが具現化したものだとぼくは思っている。亡きキューブリックからすれば,スピルバーグは,いわば手段に過ぎない。「デイヴィッドが青い妖精のもとで人間になる」という課題を与えられたスピルバーグは,その中で,自分なりのラストも創ろうとする・・・。

 A.I.の愛に,ヒトは愛を返せるか,がスピルバーグがこの映画に与えたファンタジックな主題なのではないだろうか。ヒトは何故愛するのか,ヒトの愛とは何か,と。モニカは何故デイヴィッドを愛そうと努力し(モニカはデイヴィッドを会社から押しつけられた),しかし愛せず悩んだ末に彼を捨てたのか。再生した後は,何故素直に愛を打ち明けられたのか。(スピルバーグの心はデイヴィッドを包む外の世界(人間)に向けられている)

 人間になりたい - と希求したピノキオ=デイヴィッドは,最後の人類(代)としてユニークな存在になることで,人間になれた(夢も見る)。A.I.は人間じゃない。しかし愛を求め,ヒトになりたいと悩んだ。A.I.は何処までいけばヒトとなれるのか。ヒトとA.I.の境界。これがキューブリックの与えたリアルな主題。(キューブリックの心はデイヴィッド(A.I.)に注がれている)

 真の愛を唄うなら,デイヴィッドは自分を取り戻すこと,或いは受け入れることで「刷り込みの愛」を乗り越えなければならなかった筈。(であるなら,夢を見始めた彼のその後こそを描くべきなのだが)彼は決して最後までインプットされた愛から出ることなく,その愛は2000年後に成就する。この結末はハッピーエンドか?デッドエンドか?ぼくらの涙はどちらに対して流されたものなのか?

 mirrorさんのレビューをみて目ン玉びょ〜ん! そうなの!? でもそれってホントにキューブリックらしい。でもね,その『A.I.』も観たいけど,上に書いたような感動もやっぱり観て良かったよ,ぼくは。

 みんなの疑問で多いのは,デイヴィッドはちっとも新型らしくない,出回っている他のロボットの方が人間らしいって事。デイヴィッドにないのは「経験値」なんだよね。ぼくが不思議なのは,何故デイヴィッドが(経験の後に)それを乗り越えるところを描かないのか。捕まったロボットたちだって決定的な何かを欠いていた。ならば,尚更ジュード=ロウに鍵があった筈なのだが。・・きっと,キューブリック(またはスピルバーグ)に人間を裁く(告発する)意図があったからだろう。

 愛とは本来無償のものの筈,デイヴィッドの愛はまやかしだ,というのには疑問。デイヴィッドは子供だよ。ジュード=ロウは巧みに愛を与えるが,デイヴィッドは愛してくれるように頑張る事でしか愛を表現できない。それが母親のもっとも求める愛の形だから,ではないの?  ぼくがデイヴィッドの愛に恐さを感じたのは,デイヴィッドの愛がエゴ(似せの愛)だったからではなく,オスメント君が余りに完璧にその求愛を演じたから。もしA.I.に愛が持てたとしても,愛には必然性と経験値がいる筈。デイヴィッドはそれに気がつかなかった。

 キューブリックを最大に尊重したスピルバーグの俊逸な映像と,オスメント少年の(二人の監督の想いを理解した上で演じきる)超絶演技が,却ってデイヴィッドのA.I.たる限界を皮肉っているような,そんな悪い予感がぼくらを薄ら寒くさせているのではないか?

           (2001.07.15.改稿 08.05.増補 10.15.大幅改稿)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)peacefullife[*] ガム Kavalier アルシュ[*]

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