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[コメント] さくら隊散る(1988/日)

我々が慣れ親しんだ俳優達が語る、先輩との思い出。その凄まじい最期。彼らの体験した恐ろしく忌まわしい"時代"にただ、ただおののく。☆4.6点。
死ぬまでシネマ

映画は1987年8月6日の廣島平和式典から始まり、同日同時刻、東京目黒の天恩山五百羅漢寺で行われている、さくら隊追悼会へ画面を移す。同寺にあるさくら隊殉難の碑は、元々は同寺が5代将軍綱吉公・8代吉宗公の助力によって建立されたる旨を記していたが、徳川夢声の呼びかけによってその石を使って(潰して)1952年12月8日に建立したものであった。また鎌倉妙隆寺には、これとは別に丸山定夫個人の碑がある。

小沢栄太郎滝沢 修千田是也山本安英松本克平宇野重吉といった人々は、関係者の思い出と共に、当時の演劇が置かれた状況を説明する。土方与志が作った築地小劇場から、その後分裂・官憲の度重なる圧力等で苦楽座結成から移動劇団(日本移動演劇連盟)が組織される、その経緯が語られるのは興味深い。(青年劇場の「梅子とよっちゃん」('17年)は、土方が小山内 薫と共に築地小劇場とその附属劇団を作った頃の物語である)

移動劇団は複数組織され、1945年7月末の廣島にはさくら隊の他に珊瑚座(座長乃木年雄)も居たが、珊瑚座は厳島に疎開し市内に残ったのはさくら隊の9名(丸山定夫(44)・高山象三(21)・園井恵子(32)・仲 みどり(36)・島木つや子(22)・羽原京子(22)・森下彰子(23)・小室喜代(30)・笠 絅子(41/島木の母))となった。その9名が爆心地から700m程で被爆したが、投宿先の高野邸を脱出出来たのは、丸山・高山・園井・仲の4名のみ。高山と園井、そして仲は再開した復旧一号列車に必死に乗り込み、園井は世話になった宝塚の中井邸へ高山と共に、同じ列車でありながら互いに会う事が出来なかった仲は、東京の自宅まで帰り着いた。

小沢・滝沢・杉村春子殿山泰司嵯峨善兵浜村 純といった役者からは丸山定夫(通称ガンちゃん)の人となりが語られる。丸山は救護所にいた所を珊瑚座メンバーによって発見、厳島に運ばれそこで絶命する。

乙羽信子内海明子と共に宝塚を訪ね園井恵子(本名=袴田トミ)の思い出を語る。内海は歌劇団員に慕われていた中井婦人と共に、園井と高山象三(薄田研二の息子)の最期に立ち会った。高山と結婚の約束をしていた利根はる恵葦原邦子長門裕之も園井との共演の思い出を語る。

さくら隊のそれぞれの最期はそれぞれが凄まじいもので、言葉を失うばかりであるが、被爆直後はまだ元気で九死に一生を得た仲みどりが、言語に絶する苦労と忍耐の末に荻窪の自宅まで辿り着き、そこから一体どうなったのか、唸らずには居られない。仲は小沢栄太郎が逮捕された時の差入れ係(彼女役)だった。また河原崎国太郎による前進座創立('31年)に参加していた。彼女は東大で放射線の研究をしていた都築正男外科教授の目に止まり、原子爆弾傷(ママ)第1号になった。彼女のホルマリン検体は東大にある。滅菌室も持たない当時の医者は、骨髄不全になった患者に何が出来る訳もなく、彼女を標本にするしかなかった。それから都築教授は調査団を組んで廣島へ出発している。

8月24日、仲の死亡により廣島に残っていたさくら隊9名は、全滅した。

     ◆     ◆     ◆

1999年9月30日、東海村JCO臨界事故が起きた。2011年3月、福島第一原発は爆発した。

乙羽信子のナレーションは、淡々としかし意志を以って語られていく。声がNHK教育の「ヨーコさんの"言葉"」(上村典子)に似ている。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)水那岐[*] ぽんしゅう[*]

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