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[コメント] 明日への遺言(2007/日)

冒頭に近代戦と無差別爆撃の歴史を敷衍してから物語に入ったのには、制作者の誠実さを感じ好感を持った。しかしこの映画で描かれる裁判のポイントがずれていたという指摘は正しい。
死ぬまでシネマ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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藤田まこと演ずる岡田資中将は、米軍を相手にとった軍事裁判を「法戦」と位置づけ、その論拠を「無差別爆撃の違法性」に置いた。制作者の想いも無差別爆撃の理不尽に対する怒りにあったと思う。だから岡田中将の論拠を観客がスムーズに理解できるようにという配慮に加えて制作者の訴えもあり、冒頭があのような形になった。それは良かったと思う。

しかし、裁判そのものは別の複雑な要素を含んでおり、寧ろそちらの色合いの方が大きいのである。この裁判は勝者である米軍(連合軍)による敗者への罰であり、戦後に尚行なわれた復讐なのである。米軍は裁判という形で「合法的」に復讐を行なう。それを裁判という公正を装うならこちらも法を以て戦わん、というのが岡田の「法戦」の決意なのである。もとより結果は知れているのであり、それでも尚戦うのは2つの理由、即ち戦争の指導者が負けた途端に皆ケツを捲ってはいけない、後世に範を示したい、意地を通したいという気持ちと、もう一つ、自分と共に罪に問われている若い兵士を救う事である。

だから岡田中将の「無差別爆撃違法論」=「米軍兵は捕虜ではなく戦争犯罪者なのだから、処罰としての処刑を科した」との論は、飽くまで法廷戦術なのである。岡田自身が<無差別爆撃>に如何程の怒りを感じていたかは、顕かではない(戦争中と戦後でも異なるかも知れない)。

そしてこのB級戦犯法廷が他に見られない展開を得た理由は、裁判を執行した米軍人が、体裁としての裁判ではなく、法の執行者としての責務に誠実であろうと努力していたという事であった。恐らく裁判に対する「勝者の復讐」批判は当時からあったのだろうし、裁判委員や検察官自身がその事を感じていたのではないだろうか。だからこそ彼らは被告である岡田中将の主張を聞こうとし、それ故に岡田の責務への誠実さに打たれたのである。

裁判長(リチャード=ニール)は岡田に尋ねる。「米軍規には<復讐は許される>とある。貴官はそれを知っていて(米軍にとっても合法的な)復讐をしたのではないか?」しかし岡田はその救いの手を拒絶する。「復讐ではない、飽くまで戦争犯罪者に対する処罰である」と。これは岡田が飽くまで「米軍全体を糾弾する無差別爆撃犯罪論」を捨てないという決意表明であるが、もう一つ、もしこの申し出を受け入れれば、日本軍による復讐としての処刑を司令官が認めた事になり、それは復讐としての処刑という負の連鎖を後世に残す事になる、これは断ち切らねばならない、という意志なのである。この裁判で誰かは死刑にならねばならない。米軍は誰かを処刑しなければならない仕組みになっている。であるなら、自分は何が出来るか、それが岡田中将の「法戦」であり、その姿勢にこそ米軍人も深く打たれたのである。「復讐としての裁判」の中で…。

戦争中日本軍によって行なわれた処刑の実際については不明であるが、実のところ多分に復讐の意味合いがあったに違いない。それは岡田自身が解っていたのではないだろうか。「無差別爆撃の是非」「略式手続きによる処刑の是非」という係争点を争い乍らも、そこにはそれぞれの思惑と意志、責任感と誠実さがぶつかり絡まっていたのである。

   ◆   ◆   ◆

藤田まことは頑張っていたとは思うが、実際の岡田資中将よりそうとう年が行ってるので表情が硬く(無表情で)、画的に少し辛かったのは事実。寧ろ米軍の3人(裁判(委員)長・検察官・弁護人)の演技力に舌を巻いた。

裁判所のセットとか、衣装とか、映画って膨大なお金が掛かりますよね。予算が幾らか知らんが、制作者は頑張ったと思う。

   ◆   ◆   ◆

この裁判では様々なことが争われたと思う。大岡昇平はなぜこの題材を選んだのだろう。米軍が、日本軍が、ではなく人間として見つめたい。答えが出ない問題などではない。答えを探すべきである。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)sawa:38[*] RED DANCER[*] セント[*] けにろん[*]

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